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アーカイブ:2018年
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2月

過疎四苦八苦

プロの弊害

その仕事のプロとかスペシャリストといわれることの弊害について考えています。

というのはここ数日の間に、法事の礼儀作法や仏教慣習について何度も質問を受け、お答えしながら、この答えで納得されるのだろうかと考える機会があったからです。

家内からその趣旨の指摘を何度か受けていたのですが、その場のことの注意として受け止め、「専門家とかプロ意識という偏見」を指摘されていることに気づかなかったのです。

プロであるとか専門家だと自負すること、そのこと自体が間違いというわけではありません。そうではなく、自分はプロとか専門家として現実を正確に見ていると思い込んでいたら、本質が見えにくくなるということなのです。

たとえば「法事を営みたい」と相談があったとき、法事の種類等を聞いて日時の設定のことだけをお答えしています。ときには「お布施はおいくらお包みしたらいいのでしょうか」というお尋ねもありますが、「お気持ちでお包みください。布施ですから」と建前のお答えをします。

よく考えてみると、それは専門家として原則を話しただけで、質問の答えになっていないのです。

法事が仏法に会う縁であるという専門家の解釈と、義務感やつきあいと解釈される方との間には大きなズレが見えます。

まず相談された当主が義務とか世間体、あるいは習慣で設けようとされる法事かどうかに気づくことがなければなりません。もしそうであると察知したら、その場を仏法にふれる場にすることを考え始め、素人の感覚になって目的にかなう法事のお手伝いをするのがプロではないかと思い直しているのです。

 

 

ミッション


平昌オリンピックの期間中に、一冊の本を読んでいました。

散髪屋さんが、経営コンサルタントの助言を受けながら衰退する業界を元気づけるという実話を元に書かれた本でした。その本の中でミッションということばを目にしながら考えたことがあります。

ひとつの事業を始めるとき、その事業が社会とか地域に果たす役割というこのをミッションといって明らかにしなければなりません。

宗教の世界でいえば、渡来した宣教師には異国での伝道活動というミッションがあり、現在の保育士であれば預かった子供たちをしっかり保育するという役割を果たさなければなりません。

そのようなミッションは、どのような仕事にもあるわけで、それが鮮明で具体的であればあるほど行動が活発になるものです。

本の中で、店主が「散髪屋さんのミッションは、髪を切って元気になってもらうことだ」といっていました。元気になってもらうということは、なにも散髪屋さんだけしか出来ないことではありません。食堂でも大工さんの仕事でも出来るのですが、散髪屋さんの仕事で元気になってもらうことがあるというのです。

そのような物語を読みながら、伝道するというミッションが鮮明であれば、お寺の活動内容はもっと拡げることが出来ると思いました。

 

 

リトリートのあと


リトリート体験のあと、何かの変化が生まれ新しい活動が始まるのだろうかと気になります。リフレッシュして、また新たな気持ちで生活が始まるようになれば、たとえ小さくても何かの変化が生まれるのではないかと期待をしているのです。

平昌オリンピック男子フィグギュアースケートの金メダリストの羽生選手が、「努力は裏切ることがありますが、無駄にはなりません」といわれたそうです。

スケート競技を企業活動に置き換えて考えても同じようにいえると思います。

大きな飛躍に限らなくとも何かを求め、現在の活動を見直そうとするとき、一旦すべてを白紙に戻すようなところに立ってみるというリトリートの時間。

そのリトリートのために時間と経費をかける努力をしても、それが必ず成果に繋がるとは限らないということです。しかしだからといってそれは決して無駄にはならないのです。

「なぜ生きるのか」という原点を振り返り、「なぜ働くのか、なぜ家庭を持つのか」と今の自分の生活や仕事へ向かう姿勢に気づくことが出来たら、地に足が着いた毎日が始まると思うのです。体験が積み重なるようになると思うのです。

羽生選手は、この事実に気づいて「裏切られても、努力は無駄になりません」といわれたのでしょう。

 

 

自己ベスト


平昌オリンピックが間もなく閉会になります。新しい競技への関心も生まれましたし、いろんな気づきや話題をいただきました。

「自己ベスト」とか「コーチの力」、あるいは「政治とスポーツ」といった大小様々に対する気づきや話題です。

そのひとつに自己ベストということばがあります。出場した選手が、オリンピックという大舞台で今までの記録を更新する出来事です。

他の選手と比べるのではなく、過去の自分の記録と比べて自分の努力から生まれた記録なのです。そんなことを思いながら、努力のためには明確な自己の記録をもつことの大切さを考えていました。

私はお寺の仕事をしているうちに、記録らしいものを意識することが次第に減ったように思います。

会社の勤めを辞めてしばらくは、年間の参拝者をカウントするなどして数字化できるものを記録していましたが、いつの間にか止めました。

数字を使って、数字化できないことの評価は難しいと感じたのです。さらにいえば、真実に気づく仏法に数字は必要がないのです。

「なぜ生まれてきたのですか」とか「仏法を聞けば人間はどうなりますか」という説明に数字は役に立たないのです。

というわけで、私がしいて数字で自己ベストを考えるとしたら、今日一日どれだけ罪や悪を作ったのだろうかと、気づいたことだけ指を折ることくらいしか出来ません。

でもよく考えてみたら、それは自己ワーストですね。

 

 

being


観光事業が大きな変化をしています。修学旅行もそうですし、旅行会社が販売している企画の広告を見てもよくわかります。

とくに外国の旅行者の様子を見ているとその変化がよくわかります。その変化をどなたかがことばで説明しておられ、「ああそうだなあ」と納得しました。

今までの旅行目的の主流は、サイトシーイング。次にそれにドゥイングという体験が加った旅行がよろこばれるようになり、今はそれにビーイングという目的の旅行が増えてきているといわれるのです。

そのビーイングについては、過疎とお寺の将来を考えながら気づいていました。

そこに過疎という時代の流れが見える場所がある。その場所には目には見えないけれど、今ではなぜそれを造ったのかわかりにくくなった異物のようなお寺がある。

そのような環境に身を置いて、人は何を感じるのだろうと思っていたのです。「そこに我が身を置いて自己を習う」という仕掛けが出来るのではないかと考えているのです。

墓地を見ながら、いのちを考えることがあると思うのです。本堂に座りながら、なぜ生きているのだろうと考えることもあろうと思います。

そのガイド役をしてみようと思っているのです。


 

 

リトリート


先日リトリートということばがあることを教わりました。

日常の生活から一旦離れ、まったく異質な環境の中に入り自分の人生を見直すという意味です。

そのことばは知らなかったのですが、その活動そのものは意識して行っていました。それは現代のお寺の重要な役割だと思っているからです。

いろいろな課題をもって働く人たちにとって、その課題を実現するために必要な研修は行われているのでしょうが、企業が人生を見直すという研修の場を設けることは珍しいと思います。

「自分はどう生きるのか」「自分ははなぜ働くのか」といった問が生まれる研修は、特別な場で行われているからです。考えてみるとこの研修こそが原点で、それをリトリートというのでしょう。

昨日、懸命に事業活動を続けている企業の幹部のみなさんと一日お話ししました。

事業の発展のために真剣に取り組んでいる人たちで、その情熱を感じながらリトリートの時間を過ごしました。

 

 

役割忌避


欠員ができたのであらたにお寺の総代をお願いすることになりました。小さな集落にあって門徒さんが少ないお寺なので、動いていただける人といってもそんなに数多くおられません。

その中で、この人にと心当たりをつけてお願いするのですが、自治会の役があるとかいろいろな理由をいって引き受けていただけないのです。

要請を受けたお方は特別に多忙な仕事ではないことは薄々ご存じであると思うのですが、とにかく役をもつことを避けたいという感じで固辞されるのです。

将来に希望があることの役目なら手柄になることもあるのでしょうが、夢がもてず衰退の一途をたどるお寺の役目だから忌避したくなるのかも知れません。

そのようなやりとりの場に同席し、依頼する総代長の心中を推測して、仕方なしに役に着いてもらうのではなく、奉仕の思いが生まれるように舵取りが出来ないことを悲しく思ったのです。

気持ちを切り替え、このような役割忌避の表示は、変革への応援メッセージとして受け止めようと思います。


 

 

いい話し

オリンピックの入賞選手、中でも優勝した選手の口からでることばを聞いたり読んでいるとほんとにいいお話しが次々出ます。

大方の人は人が知ることもなかった、選手を支えた人たちや、育てた人たちの話にも感動させられます。

「優勝したこともうれしいが、そんな人生であったことがうれしい」ということばなんて、生涯聞くことが出来なかったかもしれないことばだと思いました。

世界のトップとはいわなくても、何かの仕事で成功を手にいれようとしたら、人間としての修練が欠かせないというお話しです。

あるいは、「スポンサーになって宣伝したからといって病院に来られる患者さんが増えることはありません。可能なことで応援することでみなさんに何かが伝えられたらいいのです」といったことばもありました。

一人の人の気持ちひとつで、おおぜいの人々の結束が生まれるというという事実も見せていただきました。

 

 

骨休め


「骨休め」とか「骨休み」ということばは、もう今では死語になってしまったのでしょうか。

子どものころ、近所のおばさんたちの会話でしばしば交わされていたという記憶があります。

考えてみたら、私たちの周囲にはさまざまな農作業が一年を通して連続していました。田んぼに畑、収穫した作物の加工などが切れ目なく続いていたのです。

そのわずかな農閑期を見つけて、「今日は骨休みだ」とか、「2、3日湯に行って骨休めをしたい」という話が出ていたのです。子どもながら「骨休め」とは体全体の疲れを癒すという意味であることは理解できました。

ところが近年、整体術や作業療法といった仕事が出現し、人骨を整えるという「骨休め」が主流になったのです。もっともそれを「骨休め」と表現することはしませんが。

そうであるにしても、「骨休め」をしようといって温泉に出かけてのんびりした昔の骨休めということばの響きには、慰労という労働の対価を感じるのです。


 

 

ただいま人生浪費中



私がいただいている時間は、一日に24時間です。

そして今から一年間生きることが出来たら、一年間にいただける時間はその365倍になります。掛け算をすると8,760時間いただくのです。

どなたからいただくというような贈り主がおられるのかどうかわかりませんが、自分には時間を作った覚えがないので、やはりどなたかからいただくものだとしか思えません。

その時間の使い方を考えて見ると、大切に使っているように思えなくなっています。無尽蔵にとはいいませんが、いくらでもあるような感じで浪費しているように感じるのです。

時間を使える間が人生と思うと、時間を大切に使うことが人生をよく生きることになりますから、しっかり考えなければならないと思うのです。

私に送り届けられている時間は、いつ止められるかわかりません。そして必ず止められて人生が終わります。

というわけで、その前に必ずやっておかなければならないことがあると思い始めています。

「私はなぜこの世に生まれたのか」という、時間をいただくようになった目的に気づいておくことです。このまま時間を浪費し続けないためにもそうしたいと思います。