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過疎四苦八苦
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アーカイブ:2018年

過疎四苦八苦

響くことば


先日所用で来客された電気屋さんとは、「今日のことば」で会話する時間をもつことができませんでした。

送りに出た玄関先で、立ち話のようにひと言ふた言ことばを交わしただけになってしまいました。それでもひと言が伝わったようで、電気屋さんはうれしそうにお帰りになりました。

何を伝えたかというと、「素直」ということでした。商品の説明をされるセールストークがとても良心的に感じられたからです。

自分のお店の取扱ブランドのことや価格のことを話して、量販店とのハンディーをどのようなことでカバーしようとしているのかということをきちんと話してくれました。

そのことに対して、「素直であることが一番大事ですね。とても難しいことですが」といいました。

電気屋さんは、ご自身もそれを心掛けておられたようで、自分の気持ちが伝わったことをよろこばれたのだと感じました。

 

 

樹木のガン



山桜の古木がガンに冒されました。

お寺の墓地にある山桜の大樹に、大きな「宿り木」が出来たのです。10年くらい前に見つけたときは一個でしたが、あっという間に13個になっていました。

このような状態になると桜の木が枯れてしまうことを聞いていましたので枝を伐ることにしました。

伐り落とされた枝を見て驚きました。枝先のあちらこちらに小さな宿り木の芽が出ており、まだ芽は出ていないまでも、小さな胞子のようなものも点々とくっついていたのです。

一目見て、これは「樹木のガンだ」と思いました。桜の木の養分を吸って成長し、花を咲かせて粘膜がついた種を撒き次々に仲間をつくっているのです。がん細胞が全身に拡散していく状態に思えたのです。

そして自分が宿っていた樹木が枯れたら自分も死んでいくという姿も、ガンの病巣にそっくりだと思ったのです。

このたび伐採という緊急の外科治療をしたのですが、桜の木はずいぶん弱っている様子でした。

切り落とした枝には早くも桜の花芽が見えました。かわいそうなことをしました。

 

 

布施がなくなりました


「布施がなくなりました」といえば「?」と思われますが、正確には「布施という行為が変質しました」ということです。

布施とか喜捨という行為は同じことで、悟りを開くための修行の一つといわれているものです。内容は自分のとらわれを手放すという行為で、シェアーするという行為の一種と理解したらわかりやすいと思います。

悟りの妨げになる我欲を捨てる行為なのですが、現代ではその意味を把握することも出来ない行為になってしまいました。

その現実は私自身のことでもあり、他人のことではありません。

その自覚に立ったうえで、あらためて「布施」とか「喜捨」を考えると、「布施」はお礼とか経費に変わり、「喜捨」は献金とか寄付金という意味に変わっています。

生活の中から、悟りを開くために必要で実行しやすい手立てのひとつが消えてしまいました。あれこれ考えてみるのですが、それに代わる行為はまだ見当たりません。

大河の流れを変えることはできませんが、流されている自分の行方に気づいていただく以外にはなさそうで、その営みに取り組もうと思います。

 

 

実行して気づくこと


「今日のことば」の張り紙をつくりました。

今日お見えになる予定のお客さまにお伝えする仏法のことばを書いて、目立つところに張り出すのです。

お客さまに「どういう意味ですか」と関心をもっていただくためと、私がきっかけづくりを忘れないようにするためです。

反応を見ながら、どのようなことばがいいのか、きっかけづくりはどのようにしたらいいのか模索しようと思います。まず実行して、その次を考えます。

じつは昨日それを思いついて、約束していたお客さんとの話の中で話そうと思っていたのですが、張り紙つくりが間に合いませんでした。

会話の中で、「真実は生活の中だ見つかる」というお話をしようと思っていたのですが、会話に熱中しているうちにすっかり忘れてしまいました。

あらためて張り紙のような目印が必要だと気づきました。

今日の午後約束している電気屋さんには別のお話しを考えます。

 

 

チャンスはどこにでも

お寺にはいろいろなお客さんがお見え下さいます。

お見えになるお客さんはそれぞれ要件があって、所要時間もまちまちです。その時間の一コマは絶好の伝道チャンスではないかと気づきました。

目的の商品を買おうとお店に来られたお客さんに、お店が買っていただきたい品物をおすすめする行為と似ています。

今までそのような意識をまったくもつことはありませんでしたし、そのような訓練をしたこともありません。

たまたま先日お見えになった銀行員の方との要件が早く終わり、お寺の悩みとか新しい試みなどのお話しをしていたら自然に仏教の話になっていました。

人生の話として響くものがあったようで、帰り際に「いいお話を聞かせていただきました」とお礼をいわれました。

あらかじめ準備をした場合でなくても、いくつかのきっかけと伝えたい教えのことばを考えておくことで、伝道チャンスはあることを気づかせていただきました。

 

まず一歩


意識的に発想を変える小さな訓練を実行しています。具体的には異質な分野で活動しておられる人と話すことや、未知の施設を訪れたり行事に参加することなどです。

施設訪問や行事への参加は自分の都合で可能になりますが、この人の話を聞きたいというときは、相手の都合もありますから少しの調整が必要です。

現在お目にかかってお話しを聞かせていただきたいお方がおられ、申し出をしているのですがまだ実現出来ていません。

それでもあれこれ考えていると、次々お目にかかりたいお方の情報が勝手に飛び込んできます。

一昨日、アイターンをしてベンチャー業を立ち上げておられる方のお話をする機会をもつことが出来ました。その日はお寺の将来を担ってくださっている人たちの集まりを計画していたのですが、その会合にお招きすることを思いついたのです。即刻お電話を差し上げ、まったく異色な発想のお話を伺うことが実現しました。

東京から私たちの地域にアイターンして、ゲストハウスやハーブづくり、石見の観光とグルメを満載したバスの運行、廃線跡を利用したサイクリング観光ロードの整備活動などのお話しや人生観を楽しくお聞かせいただきました。

自分がしたいことに向かって、人の繋がりを唯一の財産にして、今を大切にして生きるという人生観を語ってくださる様子にメンバーのみなさんが共感してくださいました。

お寺を変えることに直結することではありませんが、何かが起こるきっかけの一歩と思っています。

 

 


返信はがきを書きながら気づいたことがあります。

一枚は原稿依頼について応諾の返事を求めるもので、切手が貼ってありました。もう一枚は結社の総会に参加するか否かの返信ハガキで、切手はこちらで貼るようになっていました。

その二枚ともあて名は印刷されてあり、名前の下に「様」と印刷されていました。

お返事を書きながら、「宛」と書かないで「様」と印刷されていることにわずかではありますが思いが動きました。

お願いしたときの返信ハガキのあて先は、お願いする人は一歩控えるような感じで「様」と書かないのが礼儀習慣だと思っていたからです。

確かに「宛」を消してわざわざ「様」と書き直すことはひと手間かかることです。しかしその手間をかけることと、依頼者の気持ちを表すことの比重は十分に考えられて続いていた習慣ではないかと思うのです。

些細なことですが、合理性追求の暮らしが謙譲の美のような礼儀習慣を消し始めているようで少し悲しく思いました。

 

 

ファーストペンギンのように


ファーストペンギンのことわざを思い出しました。

ファーストペンギンというのは、天敵のアザラシがいるかもわからない海中の魚を食べるために、最初に飛び込むペンギンのことです。安全とわかれば残ったペンギンが次々に飛び込むのです。

このことわざは、リスクを恐れていたら成果は得られないという教えです。ベンチャー事業に飛び込む人に向けられたメッセージのように感じます。

人生にはベンチャー企業を考える場合でなくても、ファーストペンギンの立場になることはたびたびあります。この役を引き受けてもいいだろうか、この商品を買ってもいいのだろうか、あるいはこれを実行をしたらどうなるだろうといった場面などです。

現代社会においてリスクと考えることは、信用失墜や損害ではないかと思います。

ペンギンは他のペンギンと相談することはないようです。相談しても、相談相手が一緒にリスクを背負ってくれないことを知っているようで、自分一人で決断し飛び込むのです。

飛び込むにしても飛び込まないにしても、このことわざは信念を持って生きなさいという教えだと受け止めています。

 

 

センスを磨くには


「あの人はいいセンスしているねえ」と賞賛される人がいらっしゃいます。

テレビや写真などで見かける専門家とかタレントさんたちのことではなく、町ですれ違う人や偶然見かける人のことです。

衣服や持ちものにかぎらず、仕草や表現にもセンスを感じます。トレンドとかTPOもありますが、やはり個人がいつの間にか身につけたものに違いないと思っています。

そのセンスの中で最近特に感じていることは、住まい全体のセンスが気になっています。

暮らしの仕方から考えられた間取りや庭、炊事用具や置物、家具の置き方とか育ててある花木などから感じるセンスです。

そんなことに関心をもつようになってから、建築設計士さんの仕事や空間デザイナーさんの仕事を意識するようになりました。

美術品の鑑定士さんが、本物をたくさん見ることがコツだといわれていたことを思い出しながら、いい作品を意識して見るようにしているのです。

そうしていると不思議なことに自分の好みが次第に絞られて、無意識に似たものを選ぶようになっています。

最近では負ける建築の設計士隈研吾さん、無駄を省き本質をデザインしている無印良品などから多くのことを学んでいます。

 

 

プロの弊害

その仕事のプロとかスペシャリストといわれることの弊害について考えています。

というのはここ数日の間に、法事の礼儀作法や仏教慣習について何度も質問を受け、お答えしながら、この答えで納得されるのだろうかと考える機会があったからです。

家内からその趣旨の指摘を何度か受けていたのですが、その場のことの注意として受け止め、「専門家とかプロ意識という偏見」を指摘されていることに気づかなかったのです。

プロであるとか専門家だと自負すること、そのこと自体が間違いというわけではありません。そうではなく、自分はプロとか専門家として現実を正確に見ていると思い込んでいたら、本質が見えにくくなるということなのです。

たとえば「法事を営みたい」と相談があったとき、法事の種類等を聞いて日時の設定のことだけをお答えしています。ときには「お布施はおいくらお包みしたらいいのでしょうか」というお尋ねもありますが、「お気持ちでお包みください。布施ですから」と建前のお答えをします。

よく考えてみると、それは専門家として原則を話しただけで、質問の答えになっていないのです。

法事が仏法に会う縁であるという専門家の解釈と、義務感やつきあいと解釈される方との間には大きなズレが見えます。

まず相談された当主が義務とか世間体、あるいは習慣で設けようとされる法事かどうかに気づくことがなければなりません。もしそうであると察知したら、その場を仏法にふれる場にすることを考え始め、素人の感覚になって目的にかなう法事のお手伝いをするのがプロではないかと思い直しているのです。