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過疎四苦八苦
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アーカイブ:2019年

過疎四苦八苦

違いはどこか?



数日前の夜 自宅のトイレの床を歩いている中サイズのムカデを発見しました。

即座にスリッパを脱いで 数回叩いて殺しました。

そのあと 何もしないムカデを 叩いて殺す行為について私の頭に浮かんだ思いがありました。

仏法に無関心で暮らしている人たちの頭に浮かぶことは 違っているのではないかと思ったのです。

私は自分の恐ろしさや欺瞞さ そしてムカデへ犯した罪を思いました。

仏法を知らない人なら 害虫を駆除した安心感が浮かんだのではないかと思ったのです。

仏法を学ばなければ こんなことを思うことはないはずです。

痛みを感じないで殺生する自分には もはや戻ることは出来ないように思え こうなることが自分にとってどういうことなのか考え始めました。

 

 

気配り



一人暮らしのご婦人のお宅で お参りしていたら玄関のチャイムが鳴ってお客さんが来られました。

家人が玄関に出て何やらお話ししておられましたが 「サツマイモがありますか?」という来訪者の声が聞こえました。

「ありますが いただけるならうれしいです」という家人の返事で 「それなら車からとってきます」といってその人は車のところに行かれたようです。

すると家人が大急ぎで居間の方に入り 何やら探し物をされている音がしました。

「何かなかったかなあ」という独り言が聞こえたので お礼に差し上げるものを探しておられることがわかりました。

一人暮らしのお方に 畑でとれたサツマイモを差し上げようと思った男性。そのお礼に何かを贈ろうと考える暮らし。

お参りも終わっていましたので あたたかい心の動きをゆっくり感じました。


 

 

ペットの成仏は?



お参り先での質問には深い意味があります。

多くは生活の現場から出てくる質問ですが 建前だけでお答えせずに しっかり考えることにしています。

昨日お参りしたお家には 家主さんから介護を受けながら生きていた犬がいました。

「犬はどうしていますか」とお尋ねしたら「コロちゃん(犬の名前)は5月に亡くなりましたので 我が家のペットのお墓に納めました」といわれました。

その日は「ペットが成仏できるかどうか考えましょうか」といって 「一切衆生ということばは 人間に限られると解釈することには無理があると思っています」とお話ししました。

そして「犬畜生」ということばづかいは間違ているのではないかともお話ししました。

如来様が人間以外の生き物をどのように見ておられたのか 私にはわからないからです。

話が終わった後で かわいがっておられたご主人は大きな声で念仏されました。


 

 

シイタケ名人



3年前から友人と二人で シイタケ栽培を始めているお坊さんの話を聞きました。

教員を定年になって始めた仕事だそうですが ご自身の性格に合っているようで楽しそうでした。

畑の準備や原木つくりから始め 美味しいシイタケの栽培を目指しているというのです。

目標は大分県でシイタケ栽培の名人がつくっているシイタケの味だとか。

その人を探し当て 敬意をこめて「シイタケ爺さんと呼び 門前払いを体験しながら教えを請うたといいます。

通いつめて少し口をきいていただけるようになったとき いただいた屑シイタケと自分たちのシイタケと食べ比べ あまりにも自分たちのものがまずいのに驚いたといいます。

「シイタケが嫌い」という人たちであっても 必ず美味しいといってくれるものを目指すのだとロマンを語ってくれました。

自分の性格に合った仕事がロマンを生み ロマンが仕事を楽しくしてくれるようです。


 

 

「偈」は爆発のうた



ちょっと専門的な話ですが 昨日お参りに行って「正信偈」という聖典を読んでいるとき ひらめいたことです。

経典の中には「偈」という箇所がいくつも出てきます。4字とか5字あるいは7文字のことばが並んでいる箇所です。

「偈」というのは「うた」という意味で 感動を簡潔に伝えようとするときに挿入されているように感じます。

正信偈というのは 親鸞というお坊さんがおつくりになった「偈」です。

声に出して読みながら「まさしく うただ!」 「感動を爆発させてつくられた うただ!」と実感しました。

そう思って経典の中の「偈」のすべてが 感動が爆発してうたになっていると理解すると その場の様子が現前に現れるようで 経典への親しみが生まれます。

 

 

それでも死に方研究所



「若い人は死に方研究所といわれても関心はないと思うよ」といわれて ネーミングを考えていました。

今までお寺で研修を受けた働き盛りの人たちの感想文を改めて読んでみたら 「死んだら地獄に行くそうです」という感想文が多いことに気づきました。

働き盛りの人に 「ピンピンコロリ」というような死に方を考えることがないことは当然です。

ところが「なぜ生きているの?」「どう生きようとしているの?」「究極の人生目標はなに?」と立ち止まりをおすすめしていると 「死に方」というフレーズが姿を変えて出ているように気づきました。

そこで「それでも死に方研究所」なんだと再確認したのです。

そのようなプロセスを感じていただけるネーミングとして 「それでも死に方研究所」という名前も悪くないぞと思い始めています。 


 

 

思い出せない



石見智翠館高校吹奏楽の定期演奏会が終わり 客席内の通路を通りながら顔見知りの人と会釈していました。

その中に 親しそうに会釈していただきながら どなただったのか思い出せないお方が何人かおられました。

もちろん 知っていますよという顔をして会釈はしましたが 申し訳ないという気分が少し残りました。

「あなたなんか知りませんよ」とか「あなたから会釈される筋はありませんが」という顔をするわけにはいかないので 苦し紛れに会釈はするのですが 気づかれなかったのだろうかと気にはなります。

こんなことが増えるようになると 人前に出ることが億劫になるのではないかと思ってみたのですが 老化防止の訓練と思って続けるつもりです。


 

 

手を下す人



火葬場での点火スイッチは ほぼ喪主一人で押しておられます。

ときには二人のときもありますが 三人ということは見かけませんでした。

一昨日の火葬では三人が前に出てスイッチボタンを押されたのです。

お亡くなりになったお母さんの介護をされた喪主であるお嫁さんが お一人でボタンを押されるのだろうと思っていました。

ところが故人の長女さん 次男のお嫁さんも加わって女性三人が押されたのです。

なぜこの三人なのか推理したのですがそれがよくわかりません。

長女さんの嫁ぎ先は同じ市内なので晩年まで出入りはあったと思います。

ところが次男さんのお住まいは大阪なので お嫁さんの出入りが多かったとは思えないのです。

あるいは存命中の子供ということであれば 次男さんが加わられるはずです。それとも次男さんは遺族代表でご挨拶されたから自分のお嫁さんの出番をつくられたのでしょうか。

まあどうでもいいことなのですが 「なぜこの三人の組み合わせなの?」と疑問がわいたのです。


 

 

非常識



常識を外したり 常識を破ると「非常識」といわれます。

常識内で生きることは気楽ですが 変化がない生活になり面白さに欠けます。また成長とか進歩がないので いつかは常識を破ろうとする人が出現します。

お寺には仏像がありますが 仏像をつくったことはとんでもない非常識なことです。

仏教は形がない教えそのものですから それを形にするなんてあきらかに非常識です。

ところがその非常識のお陰で 仏像がつくられ仏教がひろがることになり続くようになりました。

タコを初めて食べた人だって 常識破りでした。空腹に耐えかねて食べたのかもわかりませんが あの奇妙な生き物を口にしたのです。

常識破りを試みる人たちを 変人とかバカ者とかいわず そのときは新人類と思って許していたと思います。

破ろうとしている常識は 試食品のようなものです。

すすめる熱心さや興味に誘われて口にしてみて 興味がわけば自分も始めたらいいと思うのです。

その時代や地域では非常識であっても 時代や地域が変わると 非常識でなくなるものはたくさんあるはずです。


 

 

トイレの使用講習会



お預かりしているお寺のトイレを新設していただきました。

本堂の一部を改修して 寒い日や雨風の日にも楽に行けることを考えたのです。

今では珍しくない ウオッシュレットがついたトイレです。

初めて使う日には行列ができていたようです。

私が用足しに行ったとき トイレの中におやつに出していたオカキの小包装紙が入れてありました。

またトイレ用のスリッパがトイレを出た廊下に脱いでありました。

慣れるまでは 当分このようなことがおこりそうです。

お参りくださる人たちに 最新のトイレ生活を身につけていただく機会提供も お寺の役目と考えましょう。