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アーカイブ:2019年
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5月

過疎四苦八苦

宝の山にいながら見えない宝



近所に「風のえんがわ」というイタリアンのレストランがあります。

市が主催するビジネスコンテストで大賞をとって始まったビジネスです。

東京でフレンチレストランで腕を磨き 自分で工夫を重ねながら「石見のイタレンチ料理(造語です)」を出してもらえるシェフの店。

樹木や草花が生い茂った 広い庭がある古民家を改装した大きなお店。

先日そのお店に 東京からやってきた友人を誘って 夕食に出かけました。

駐車場からアプローチを歩き 自生のジャスミン花のにおいを嗅ぐところから 「すばらしい!」といい始めました。入り口近くに見えた山羊を見て「山羊!」と驚き 身なりに無頓着なおじさんのが庭を歩いていることに別世界を感じた様子でした。

「これは 今日そこらでちぎってきた山菜です」とか「今日初めて野いちごを見つけましたから」という食材の紹介にも感動。

食事を終えるころ 「これからお客さんで忙しくなるの?」と私に尋ねたので 「たぶん私たちで終わりですよ」と答えました。

「スモールサイズでディ-プバリューという シェフの生き方に賛同しているんです」と話したら それに対してお客さんは何もいいませんでした。




 

 

漫才でなくトークショウがいい



「漫才の研究をしよう」という思いを友人に相談してみました。

この友人というのは 東京で役者を養成している劇団のオーナーで 毎年やって来て一日語り合うのです。

芸能界のことについて 裏も表も知っているので相談してみました。

その彼が 言下に「やめなさい」といったのです。

「漫才師は気楽に 当意即妙に演じているように見えるが ものすごい稽古を重ねて笑いをつくっているんだよ」。

「頭の回転も半端じゃないし ストーリーづくりにも大変なエネルギーを使っているんだよ」と実例を話しながら 教えてくれました。

「君がやろうとしていることは トークショウだよ。それはとても面白く受けると思うから それを研究しなさいよ」と方向についてのアドバイスをくれました。

話を聞きながら 「そうなんだ 自分がやろうとしていることはそれなんだ」と納得して ヒントをたくさんいただきました。

これからお寺の法座がもっともっと楽しくなりそうです。

「乞う ご期待!」です。


 

 

漫才の勉強



漫才のことを勉強しようと思っています。といっても漫才師になるつもりではありません。

お寺で行われるお説教の第二部で 数年前からご講師のお坊さんと対談する時間を設けています。

今まで数回の対談をしながら気づいたことは 聞いておられる皆さんが楽しそうな笑顔で聞いておられるのです。

対談の中身は仏法の話とか ご講師の人生観などが中心ですが 新しい雰囲気が生まれています。

そうしているうち 漫才が対談であり「ボケと突っ込み」という役割で楽しさが醸し出されていることに気づいたのです。

かっての「エンタツ・アチャコ」「ダイマル・ラケット」「やすし・きよし」「コント55」。

最近では「大助・花子」などが楽しませてくれています。

お説教においで下さるお坊さんにボケ役はお願いできませんので 住職がその役になるのがいいと思い ボケの研究をすることを思いついています。




 

 

お箸とナイフやホークの置き方



「なに考えているんですか?」と いわれそうですが 料理研究家の土井善晴先生のファンです。

食べ物に対する考え方を学ぶことが多く いつの間にかすっかり魅了されてしまっています。

たとえば「一汁一菜のすすめ」という考えに感化され 「お寺ごはん」という名前を発案して実行し始めました。

「具だくさんのお味噌汁が基本」というお話しに触発されて しばらくお味噌汁づくをしたこともあります。

世の中のトレンドは グルメとか外食でにぎやかですが 家庭料理を大切にして欲しいという基本姿勢にも共鳴しています。

先日は 和食では当然の「お箸は横置き」になっているわけを聞きました。

洋食では ナイフやフォークはお皿の両側に縦置きですが 和食のお箸は料理のお椀などと自分の間に横にして置かれます。

お箸は 自他のいのちの結界という境をあらわしているといわれました。

「他のいのちをいただく前に 手を合わせ いただきますと感謝のことばをいって 結界のお箸をとるのです」というお話でした。

このような土井先生の料理に対する思いの深さに惹かれているのです。


 

 

お年寄りの智慧も大切




80年間の人生経験を積ませてもらったおかげかどうかわかりませんが 次第にお説教めいた口調が増えたように指摘されますし また自分でもそう感じるようになりました。

「人生が分かったよ」と いいたい衝動が止まらないのです。

落語などで 大家さんやご隠居さんという役柄の智慧者が登場して 一役買っているところを見ると お説教とかお年寄りの智慧は いつの時代でも無用ではなかったのでしょう。

高学歴の若者が増え ITの時代になってくると お年寄りの智慧は役に立たなくなっているのではないかと つい控えたくなる思いもあります。

ものわかりがいいお年寄りでいようと思ったり 一方では先が長くないのだから 煙たがられても笑われても話しておこうと思うのもお年寄りの智慧なのです。

お年寄りの智慧は 「当たり前のこと」が大切ということが原点になっています。

たとえば「健康が一番」「老いては子に従え」とか「情けは人のためならず」といったことです。

そのような「当たり前のこと」は 何かに向かって努力している経験が薄い人の耳には届きにくいのものなので 身につけた「智慧で生きてみせる」ことが一番と思えてきました。 

「年寄りの冷や水」と笑われない程度に 智慧を前向きに絞って生きてみましょう。


 

 

やり直しは出来ないが見直しは出来る



なぜか「時間」っていったい何だろうと ふと考えたのです。

これはこのたび滋賀県で発生した 保育園児の交通事故災害の関係者の心境を 家で話していることがきっかけになっています。

「仏さまに救われる」とか「人生のやり直しは出来ないが 見直しは出来る」ということばが頭に浮かんで 「どうにもならないことでも 時間は解決してくれる」と 時間ことを考えることになったのです。

時間は目には見えませんが 変化が見えるから時間があるように思うのではないかと思ったのです。

そもそも時間は永遠に止まったままで 一切のものは その中で縁起に従って変化しているのではないかと思い始めたのです。 

人の成長も老病死もそれは細胞の変化や縁起の結果であり その変化につけたメモリーが時間と考えたのです。

交通事故で一瞬に消えた子どものいのちがあります。そのことで嘆きと苦しみが始まったご家族がおられます。また一方には 事故の運転者と家族がおられます。

生きているかぎり忘れられない 出来事が一瞬に拡がっているのです。

もし時間が川のように流れているのなら さかのぼって事実を消すことは不可能です。ところが 止まっている時間の中で 一人ひとりが縁起によって変化していると受け止めたら 新しい人生に変化することも可能です。

その変化を起こす働きはどこかにあると思うのです。


 

 

ツバメに教わる空き家管理法



施設の軒先に 空き家になって2年くらい経ったツバメの巣が三軒あります。

先日 その巣にスズメがさかんに出入りしているのを見かけました。

空き家になったツバメの巣を スズメがリフォームして利用していたのです。

ツバメが飛ぶ姿は消えてはいませんので どこかに新しい巣をかけて引っ越したものとみえます。

土を運んでつくり上げた巣で かなりの労力をかけていたはずの家でしたが 惜しげもなくスズメに譲っていました。

あるいは便利な生活を求めて 家を捨てて転居したのかも知れません。

ツバメの気持ちも習性もよくわかりませんが それにしてもスズメが賑わいをつくってくれています。

一方 周囲にある人間の空き家は 長い間空いたままなのですが 誰も利用者が現れません。

事情があって転居されたのですから 誰かに差し上げたらどうでしょうか。それとも 不便なところでは暮らしたくないのでしょうか。

ツバメやスズメたちには どう見えているのでしょうか。



 

 

呼び出し方の違い



つづけて訪問した二つの金融機関で 接客の違いを見せていただきました。

最近は個人名を呼ばず 待っている人を番号で呼び出すことが多くなっています。

大きな病院に行けば 受付でレシートのような番号札を渡されます。銀行では 樹脂製の大きな札を手渡されて 待合所の椅子で待つことになります。

不特定多数の人が出入りしている場所なので 大声で個人名で呼び出されることがうれしくない人がおられるからです。

ところが先日お邪魔した某信用金庫では 堂々と「○○建設様」とか「△△様」と企業名や個人名を呼んでいました。

4人ほどのお客さんでしたが どんな人が利用されているか一瞬で分かりました。

騒ぎ立てるほどのことではないのですが 個人情報保護をうるさくいう時代の金融機関としては すこしゆるいなあと感じたのです。

とはいえ目の前には自分一人しかいないのに わざわざ「○番の番号札でお待ちの方」と呼ばれるのもすこししらけます。

個人情報保護の本質をわきまえて 臨機応変に接客することが難しいのでしょうか。


 

 

「三方得」という話



「三方得」という話があることを知りました。

「三方損」の話は有名ですが なぜか三方「得」の話は耳にしませんでした。

あらすじは お使いの帰り道で3両のお金を落とした使用人が 主人に泣きながら事実を報告しました。

それを聞いた主人は すでに外は暗くなっていましたので 松明を一両分買い さらに一両出してお金を探す人を雇い 無事に落としたお金三両を探し出したという話です。

むりやり作ったような話ですが その時代には必要な話だったのかもしれません。

でもこの話は 現代社会の在り方について考えさせるところがあります。

利益をシェア-して 商品を購入する消費の創造 雇用する機会づくりという社会貢献の実行です。

消費拡大ばかりを考えることには賛同できないところもありますが 利益をシェアーして 暮らしやすい社会を育てる話としては理解できます。


 

 

「使い捨ての食器」をテストします





和皿という紙の食器を お寺ごはんなどのためにテストしようとしています。

バーベキューやキャンプなどで使う紙コップとか紙製の食器ですが それが大変な進化をしているらしいのです。

「使い捨て食器」なのですが 環境にやさしく土にかえる素材でつくられているらしいのです。

さらに ホテルやレストランのパーティ―で使われるほどのセンスで フランスの有名店でも利用され始めたそうです。

「お寺ごはん」を食べていただくようになって 準備と片付けのスタッフや時間のことも考えるようになりました。

さらに新しいお寺文化が育つことも ひそかに期待しています。

まずは話題作りになりそうなので さっそく実験します。