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過疎四苦八苦
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アーカイブ:2020年

過疎四苦八苦

自分の人生に光を当てる



現代の若い人たちは 「なぜ宗教に尋ねようとしないのか」という問いを考えていました。

この問いは 世界でも通じる問いではないかと思います。

仕事をしているときは 仕事のことを考え続けることは当たり前のこと。

でもそのなかには自分の姿勢や 人間関係のことや人間のエゴなど 人間について考える場面も少なからずあるはずです。

ところがせっかく人間について考えても 自分のことに目を向けることは抜けがちで 目の前の他人が人間になります。

またそこには 自分の一生には終わりがあるという思いもありません。

いつまでも現状が続き さらに努力次第で良くなるはずだと思うから 人生に思いを向けるという基本動作には目が向きません。

働いている自分 それを支えている家族や周囲の人たちの存在にも目が向きません。

あらゆる宗教は 自分の人生に光を当てる働きです。

そうすることで自分に都合がいいことが起こるわけではありませんが 抱える問題に新しい光を当てることは出来ます。


 

 

足元の見直し



お盆の由来は 『仏説盂蘭盆経』という経典に説かれている物語から始まっているようです。

登場人物は 釈迦十大弟子のお一人であった目連尊者とお母さん。

十大弟子という評価を受けるほどのすぐれた出家者であった目連尊者は とくに神通第一という神通力使いに秀でておられたお方です。

そのお方が お亡くなりになったお母さんを探されることから物語が始まります。

お母さんは「ガキ地獄」という 食べ物や飲み物がありながら口にできない地獄でもがき苦しんでおられたというのです。

目連尊者はお釈迦さまのもとに駆け付け お母さんを救う方法を教えてほしいとお願いされます。

お釈迦さまがおっしゃったことは 「お母さんがやってこなかったことをしなさい」といって 雨季が終って托鉢に出られるようになったお坊さん方への布施のすすめでした。

そのことばに従い 布施を続けた結果 お母さんの姿は地獄から消えたという物語です。

この物語には 大切な教えが二つあります。

ひとつは気づかないうちに続けている自分中心の暮らしです。二つ目は 問題の解決は布施という思想をもつことなのです。

布施には別の表現として「喜捨」という表現があります。

何かのお礼として あるいは利便を図るための手段ではなく「自分中心のとらわれを捨てる」という行為の表現です。

自分の暮らしの中にある自分中心の姿を見る。お盆は自分の足元を見直す日なのです。
 


 

 

考えることが難しい人生の逆転



人生には 三つの坂があるといいます。上り坂 下り坂 そしてま坂という坂です。

上り下りの坂は 考えたらわかる坂ですが まさかという坂は考えがつかない坂なのです。

そして厄介なことに その坂に出くわしたら自分の力ではどうにもなりません。過去の経験とか手持ちの資産を使って どうにもならない坂なのです。

天災による突然の逆境。本人や家族の事故とか病気 あるいは今年発生したコロナ禍もそうです。

すべての予定や計画に狂いが生じ 人生まで狂ってしまう出来事です。

でもこのま坂は 急転落下の破滅への下り坂ばかりではありません。

今まで気づくことがなかった 上り坂への分岐点になることもあるのです。

ま坂という「四苦八苦」の出現は 足元を見つめ直し新しい道に踏み出すチャンスになります。

勇気を出してお寺を訪ね 足元に来ている道を見る助言をいただいたらいいと思います。


 

 

ブルーベリーを摘みました



いちご狩り ブドウ狩り 梨やリンゴ狩りなど 果物の畑に入って自由に摘み取る楽しみ方があります。

先日初めてブルーベリー狩りに行って その楽しみを体験しました。

ブルーベリー食べ放題で入場料は 大人600円。

時間制限なしですが 摘み取ったものは200グラムがお土産として無料で 残りはキロ1,000円での買取でした。

4,000本あるという畑の中に入って 最初に一粒食べたのですが もっと食べようという気持ちにはなれませんでした。

結局5粒くらい食べただけで 一緒に行った人たちも同じようで 10粒食べた人はおられませんでした。

それでも「食べ放題」というキャッチコピーは なんと魅力的なのでしょう。

摘みながら 農園の人たちが摘み取りをすることは大変な作業であることに気づきました。まったくの手作業なのです。

お客さんに入園料を払っていただき 自分で摘み取ってお買い上げいただくという よく考えられた商法でした。

8人で出かけ 休憩をはさんで約2時間。

皆さんは2,000円以上の支払いをしながら 「これでジャムをつくる」といって満足そうでした。


 

 

オンラインによるお墓参りが出現しています



オンラインでお墓参りができる時代になったようです。

きっかけは 新型コロナウイルス感染拡大にあることに違いありません。

それが歓迎される状況はすでにあったと想像もできます。

断定してはいけないのですが わざわざ時間と経費を使ってお墓参りをしなくても簡単にすまされないかという願望があったのす。

墓前でなく画像の前でも手を合わせたら ご先祖様にごあいさつしたという満足感は生まれるのでしょう。

私たちが耳にしている「供養」とか「お墓参り」は 中身がない茶番劇になっているのです。

都合がいい方法に便乗して「済ます」のではなく 出来ないことを「済まない」と思う気持ちが大切と思います。


 

 

お使いをしたという実感



常用の薬が切れたので薬局に行きました。その予定を家人に話したら お使いを頼まれました。

毎日の食事に欠かせない 石見ブランドの「かための絹ごし豆腐」と朝食用のバナナ。

そしてから揚げの粉。これは地元の浜で釣ったという小さなキスを80匹もいただいたので から揚げをつくることにしたからです。

夕方でお勤め帰りの人出はありましたが 顔見知りの人に出会うこともありませんでした。

もし出会っても 皆さんがマスクをされておられるのでわかりにくかったこともあります。

買い物の商品名や銘柄がわかっていたので スムーズに予定の買い物は終了。

買い終えたあと ふと何人かのお客さんが ゴンドラから卵のパックを買い物かごに入れ私の前を通り過ぎて行かれる光景に出会いました。

月曜日が「卵の大安売りの日」という家人の話を思い出しました。

予定にはなかったのですが それを1パック買って帰りました。

帰った後 なぜか「ああ 今日はお使いをした」という 子どものような満足感がありました。


 

 

ハチは刺しアブは噛む



昨日は預かっているお寺の掃除をしました。

朝6時から 休憩をはさんで9時まで。男女合わせ22人での奉仕作業です。

境内の草刈りや伸びている生け垣などの剪定 そして本堂内の大掃除をしてきれいにしてもらいました。

毎年のことですが 今年もハチやアブが出ました。それでも今年は ハチは少ないようなので少し油断していました。

二人の男性がハチに刺され それでハチの存在に気づいたのです。

そのときの会話に出たことばは「ハチに刺された」ということばでした。

ハチは刺すのです。お尻から針を出し 敵を追い払うために刺すのです。

その話をしているときアブの話題も出ました。今年はアブを多く見かけます。しかも大型の ハチアブと呼ばれるようなものです。

そのアブは噛むというのか刺すというのか 家人と話しました。

私は「アブは噛むというんだ」と主張するのですが 家人は「アブも指すというのではないか」というのです。

アブには尻から出す針はありません。噛みついて血を吸うから「噛む」のだといって納得してもらいました。

あとで正しかったのかどうか心配になって 調べたら間違いありませんでした。

私は今年アブに一回噛まれていたのです。


 

 

時間のこと



時間を見つけたきっかけは何だのでしょうか。

なぜ時間というものが必要になったのでしょうか。

時間というものが出現したおかげで 私たちは「死ぬ」とか「寿命」 そして「悲しみ」ということを手にしたような気がします。

時間というものがなかった時代 人は「日の出」「日の暮れ」とともに活動していたはずです。

時間というものがなかった時代 死は永遠の中で生じているごく自然な出来事だったと思われます。

時間をもたなかった人間のご先祖は 昼と夜が繰り返すように生も死も繰り返していると受け止めていたように思うのです。

縄文杉を見ながら 縄文時代の人々は死ぬということを知っていたのだろうかと ふと思ったのです。


 

 

「象」の特別展示を観ました



自粛ムードではありましたが 県外に出ず公共交通機関も利用せず そして人出を避けた息抜きを思いつきました。

30キロほど離れた三瓶山にある「三瓶山自然館」に行ってきました。初めてです。

「コウガゾウ」の実物大の骨格が展示されているというので それが見たかったのです。

午後から出かけ 館内には数組の入館者がいるだけで ゆっくり見学することができました。

象に関する様々な資料や 発掘された縄文杉の現物には圧倒されました。

ほぼ見終えたころ とつぜん家人の笑い声と大きな呼び声が聞こえました。後戻りしてみると そこには「はじめてのゾウの飼い方」と書いた3枚のパネルがありました。

一枚目のパネルには 「ゾウの寿命は70年くらい。もしかしたら飼い主のあなたのほうが先に旅立つ可能性も」と書かれ 「家族とよく相談してください」とありました。

ゾウを飼いたいという人いるのかどうか。どうであるにせよ コピーを考えた学芸員さんのユーモアに気持ちがなごみました。

新型コロナウイルスが 灯台のもとにある楽しいスポットを照らしてくれました。

 

 

人は何でつながっているのでしょう



人と人は何でつながっているのでしょうか。

そんなことを思ったのは 後を継ぐ者が誰もいない老婦人がお亡くなりになったからです。

早々とご主人と死別し しばらく一人暮らしをしたあと故郷に戻られた人でした。

故郷には 妹さん家族と亡くなられたお兄さんの家族がおられたことや ご先祖のお墓があるということで居を移されたのだと思います。

葬儀の喪主は妹さんでした。葬儀が終ったあと これからのお参りなどのことをお尋ねしたら 「自分がやります」という控えめなお返事でした。

それは血のつながりによるものでしょうか。もしかしたらお金のつながりということがあるかもわかりません。

あるいは世間の目というつながりもあります。

いやいや 私にはひとことで説明できるようなつながりではないと思われました。

道徳とか倫理 また人間愛という決まりことばでなく もっと違うつながりに思ったのです。

しいてことばをつけるなら「ご縁」。生かされて生きている 大きなつながりの力を感じました。