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アーカイブ:2020年
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7月

過疎四苦八苦

人は何でつながっているのでしょう



人と人は何でつながっているのでしょうか。

そんなことを思ったのは 後を継ぐ者が誰もいない老婦人がお亡くなりになったからです。

早々とご主人と死別し しばらく一人暮らしをしたあと故郷に戻られた人でした。

故郷には 妹さん家族と亡くなられたお兄さんの家族がおられたことや ご先祖のお墓があるということで居を移されたのだと思います。

葬儀の喪主は妹さんでした。葬儀が終ったあと これからのお参りなどのことをお尋ねしたら 「自分がやります」という控えめなお返事でした。

それは血のつながりによるものでしょうか。もしかしたらお金のつながりということがあるかもわかりません。

あるいは世間の目というつながりもあります。

いやいや 私にはひとことで説明できるようなつながりではないと思われました。

道徳とか倫理 また人間愛という決まりことばでなく もっと違うつながりに思ったのです。

しいてことばをつけるなら「ご縁」。生かされて生きている 大きなつながりの力を感じました。


 

 

品物を手に入れるまでの時間



食堂とかカフェに行って何かを注文すると それからオーダーしたものを作り始めることになります。

その前に別のお客さまの注文を受けていたら それを作り終えてから取り掛かることになります。

その時間のことを待ち時間と呼びます。

このたび2台の車を処分して 新しく1台のSUVを購入することにしました。

セールスマンの話では その車種は人気車らしく 納車までには3か月ほど待つことになるそうです。

既製品に近い車の納期としては ずいぶん待ち時間が長いと思うのですがそういうものだそうです。

注文を出した後の工場の中を想像してみました。

入ってきた注文伝票を見て オプションでどんな部品が必要かチェックします。

そしてその取り付け作業の順番はどの様な流れになるか計画し 部品の在庫を確認します。

そうしながら注文の色を塗って乾かす。

そして最終の作業工程で 注文がでているアクセサリーを取り付ける作業。

メニューがたくさんあるレストランの厨房の中と同じようなものでした。


 

 

羽音を聞くと虫の種類がわかります



家人は大変虫が嫌いです。

特にハチには恐れを感じており 蚊にもナーバスになります。昨日「ハチがいる!」と大声を出しました。

部屋に行くと土蜂の羽音がしていました。

家人が怖がっているハチではなく 人間を襲うことがないハチなので「あれはおとなしいハチだよ」と話しました。

そう答えたあと 羽音を聞いて虫の種類がわかっている自分に驚きました。

いつそんな知識を身につけたのだろうと 少しの間記憶をたどってみました。

見つかった答えは 中学生までの時代という答えでした。アブ ハチ 蚊などに何度も刺されて身につけた知識でした。

羽音ばかりでなく 姿を見ると そのハチや蚊の性格もわかります。

あわてて追い払ったり 巣に近づかずくことがなければ襲わないことも知っています。

蚊が人を刺す季節や 集団で襲ってくる時刻もわかっています。

あるいは蚊を確実に仕留めるタイミングも ハエを素手で捕らえる術だって知っています。

いつの間にか身につけた知識と知恵で 無意識で田舎の暮らしを楽しんでいたようです。

 

 

一杯目は自分のため 二杯目はあなたのため



毎日のティータイムには紅茶をいただきます。

家人は紅茶が好きで コーヒーが苦手なのです。私はコーヒーでもいいのですが それにこだわることもありません。

昨日お見えになったお客さまに 紅茶をお出ししたそうです。

最近楽しんでいる「フォートナム メイソン」というブランドのお茶です。

そのお客さまも紅茶好きだったらしく 楽しい紅茶の入れ方を紹介してくださったようです。

「ティーサーバーに茶葉を入れるとき 『一杯目は自分のため 二杯目はあなたのため 三杯目はポットのため』といって入れるのです」と紹介されたそうです。

その話を聞いて 「一杯目はあなたのためではないの?」と家人にたしかめたら 「自分のためといわれた」と明言しました。

どうやら 「おもてなしの文化」と違う「紅茶文化」というものがあるようです。


 

 

予約の取り消し電話



このたびの連休中 「法事」の約束を取り消してほしいという電話が2本ありました。

福岡のお方と兵庫のお方からでした。理由は「感染の勢いが激しくなりましたので ご迷惑をおかけしないように中止させてください」ということでした。

故人がお亡くなりになった時期に合わせて予定されていた法事なので 延期ではなく中止という決定になてしまいます。

都市部からお帰りになって法事を計画されるお気持ちに応えたいと 周到な準備は心がけますが 感染の不安はぬぐえませんでした。

万一ウイルスが感染したときのことを考えると お互いに長い間さまざまな苦悩が生じます。

そんなことをあれこれと思案していると 「心配しなくてもいいときが来るまで 出会いを待ちましょう」という提案のメッセージを出しておく方法もあることに気づきました。

法事の相談をいただいたときに提案してみようと思います。


 

 

伴侶がお亡くなりになると一年以内に



伴侶に先立たれた人が 後を追うようにお亡くなりになるという事実には少なからず出会いました。

そのときに耳にすることは 「仲が良かったからねえ」という存命中の暮らしぶりです。

一昨日お参りした家のご両親は 奥さんがお亡くなりになって8か月後にご主人がお亡くなりになっていました。

息子さんご夫婦から ひとしきり存命中の献身ぶりを聞きながら 仲良しというより「献身」とか「生き甲斐」のことを思っていました。

話の中で 5時間後に後を追うようにお亡くなりになったお方がおられたことも聞きました。私が体験した最短期間は 5日目でしたので驚きました。

突然尽くす相手がいなくなった寂しさを早く癒せたら そして新しい生き甲斐が生まれたら 別な結果になるのではないかと思います。

そのような人々と関わる機会があるのですから お役に立つようにしなければとあらためて自覚したひとときでした。

 

 

「聞く」から「やる」へ



宗教とのかかわり方を概観すると かかわる人が行う動作として「祈る」ことが一番多いと感じます。

次には「修行」でしょうか。そして最後のかかわり方として「聞く」ことがあると思います。

このようなかかわり方をすることによって その次にどのような行動が生まれるものか考えています。

たとえば「祈り」を終えたあと 何もしないでその結果を待つのか それとも何かの行動に導かれるのか。そんな疑問が生まれてきているのです。

瞑想という修行によって邪念が晴れ その後の行動にエネルギーが生まれることがあるのでしょうか。

また聴聞というかかわり方を続けていたら 自己の不実に気づき虚無感が募ることになるのでしょうか。

自分が暮らしている社会は どのようなかかわり方をしていても 災害や誘惑あるいは邪念がつきまとって離れません。

しつこく絡みつく社会の中で 「聞こえてくる真実」を聴いていたら その真実が自分の行動ににじみ出ると思っています。


 

 

包丁を買いました



長年使っていた包丁の柄が壊れてしまいました。

傷みが出始めたのですが 何とか我慢して使ってきましたがついに抜けてしまったのです。

包丁にはすこし錆がきており黒ずんでいましたが まだ使えなくはありませんでした。

それなのに なぜかそのときに「捨てよう」と思い込んでしまったのです。

「どこに捨てるか どうやって捨てるか」。

そのことだけに思いが向いて 柄を付け替えるということを思わなかったのです。

たとえ誤って捨ててしまったものであっても いつまでも捨てたものには執着しない性分と自負していたのですが なぜか包丁を捨てたことは頭に引っかかっていました。

それを断ち切るために 張り込んで新しい包丁を買ったら区切りがつきました。


 

 

「くらし」に向き合う童画作家のこと



昨日午後から 近くにある今井美術館に行ってきました。

「みはしたかこ原画展」を観るためでした。作品を見る限り 童画作家でした。

ほぼすべての作品には お花と子どもそして小動物がつつましい表情で描かれていました。

日常生活の中からモチーフを選んで 「あっ それわかるわかる!」という共感が湧く絵でした。

実は10年くらい前 この作家に『往生要集』の絵を描いてもらっていました。

地獄極楽を描いた『六道絵図』はなんども観ていましたが 身近な人たちにも一度は観てもらっておきたいと思いついて 作家を探したのです。

絵を描いておられる方が隣町におられることを聞いて 作風も知らず早速相談してみました。

「描いてみましょう」と引き受けていただき 八大地獄を描いていただきました。

出来上がった作品を届けていただいたとき 「図書館や宗教書をたくさん読んで イメージをつくりました」といわれ 苦労されたことを想像しました。

その地獄絵と 美術館で観る童画のイメージギャップがあまりにも大きいのに驚きました。

しかし家に帰ってから 違っているように見えてはいても 両方ともていねいに「くらしと向き合った作品」と納得しました。

今井美術館で9月13日までです。


 

 

ウイルス感染防止と生活のはざまで



新型コロナウイルス感染防止と生活について考えています。

ビクビクすることなく しかし油断しないで生活したいと思っているのです。

厄介なことは ウイルスが目に見えないことと 果たすことを期待されている責任があることです。

目に見えないウイルスを防ぎながら その責任を果たす万全の方法があればいいのですが 日常生活の中にそれは見つかりません。

我々にとってできることは 不要不急な外出と三密防止 マスク使用そしてこまめな手洗いくらいです。

それでも万一感染したことを考えると 自身の行動が束縛されるだけでなく 周囲にご迷惑をかけることになり偏見までも生じかねません。

完全自粛という方法が一番ですが それでは責任の放棄になりかねないこともあります。法事とか葬儀を忌避することはできません。

どのような役割にも 緊急性の事態もあれば人道上の事態もあります。

建前上の責任とか理想上の責任を考えることは控えめにして 地域の人々を中心にした緩やかな社会が納得する責任を考え続けるのです。

人生とは どうやらこのような狭間のことではないかと気づいたのです。