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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

我に返る



「我に返る」ことは 自分と向き合うことだと思います。

毎月16日にお参りする家のおばあさんに 「こうして毎月お参りする目的は何だと思いますか」と ひどい質問をしました。

宗教上の慣習として続けていることを 一度白紙にして見直したいと考えているからとお断りし おおらかに受け入れて下さることに甘えてたずねたのです。

「習慣になった行事なので そのたびごとに考えることはありませんが この日があるおかげで 手抜きをしている自分に気づかせてもらうことが出来ます」といわれました。

あれこれ考えた結果 お参りは我に返る日だと思うことは間違っていなかったと思います。

お参りを始めたころの思いが薄れている自分 休みたいとも思う自分など 自分の姿に向き合わせてもらう日であり時間なのです。

そして仏前に座ることは そのことを気づかせてくださるのが仏法であることを確認する行事であると思います。

 

 

ビートルの生産が終わるそうです


ドイツのフォルクスワーゲン社の小型車で ビートルという丸っこい形をした車があります。生産開始から70年以上作り続けられたという車でしたが 来年で生産を終えると発表されました。 

この車はとても特徴がある車でした。たしかポルシェ博士がつくった車ということですが 水に浮くほどの機密性とか空気抵抗が少ないスタイルや 当時としては燃料消費が大変少ないことがウリでした。

また珍しい空冷エンジンの車で エンジンは後についていました。社用車の一台がビートルであったため ずいぶん乗りましたが乗り心地がいい車とはいえませんでした。

モデルチェンジのたびに改良が加えられていたようですが 変化しつつも独特のスタイリングは保たれて フアンのこころを掴んでいたように思います。 

という回想はともかくとして 変化する基準ということを考えさせられた発表でした。

車は利用者の生活とか製造の技術や環境の変化などによって 適応という変化を続けやがては消滅にいたるのです。

自分の一生について同じように考えてみたら 自分という車種(?)は年齢とともに適応の変化を続け やがて死滅しますがその年月は平均で80年程度。 

その間 自分を改良している基準はいったい何だろうか考えておくことが大切だと思います。 

 

 

過疎地での暮らし方



ヨコヤマ農園の横山さんと出会ったのは昨年でした。そのあと梨園を見せていただき 誠実な仕事の姿勢と話しぶりに共感したのです。真面目な人だなあと直感し 出来るだけ応援したいと思ったのです。

先日 横山さんの選果場に行き 収穫した梨を糖度計で計られる作業を見せていただきました。

そのとき「糖度は計測の箇所によって違いますから 色づきが薄い部分を見つけて計っています」とおっしゃいました。「ほとんどが糖度13以上ですが 念のために一番低そうな部位で計測して出荷します」といわれたのです。

帰宅して 過疎地の暮らしには「真摯」であることが何よりも大事であると気づきました。真摯さは人を惹きつけるという事実です。

かって極端に正直に徹して暮らす人を見て 「バカ正直な人」とか 「クソまじめな人」と なかば揶揄するようにいっていました。今ではあまり耳にしなくなったことばですが 「バカ正直」「クソ真面目」に徹した暮らし方は 真摯な生き方と同じだと思います。

誰もがそうであったとはいいませんが 過疎地に残っている人は きっと真摯な人だったと思います。 さらに過疎地で何かコトを成し遂げる人は 真摯な人だろうと思ったのです。

そして「そうだ 周囲の皆さんに 過疎地に暮らしていることを嘆かないで 真摯であることを徹底したらきっと何かが変わることをお話ししよう」と気づきました。


ヨコヤマ農園の梨は 「いわみの実」というブランドで店頭に並びます。冬場には畑に籾殻をしっかり入れ その養分を吸って太った実は深い甘さが楽しめる梨になっていました。
 

 

失ってはならないものは



いろいろなことを始めようとすると 「そんなことをしていいの?」とか「間違っていない?」という 外部から心配する声が聞こえてきます。

心配される大方の内容については 一度以上自分の頭の中で問答のようなシュミレーションをしていますから 自分では納得しています。

でもときには気づかなかった指摘もあり そのときには謙虚に再考しているつもりです。

新しいことをするときは 必ず捨てなければならないことがあります。

たとえば「年忌法要」という行事の名前を変えるという小さな変化でも 今まで使っていた名前の由来とか意味を理解した上で捨てなければなりません。

さらに趣旨まで変えるとなる たとえその趣旨が今までより時代に即応して鮮明になり 意義深いものであったとしても難しいことだろうと思われます。

そのためには今までの手順に慣れ親しんで下さっている人々の戸惑いを払拭するような ストレートでわかりやすい内容にしなければなりません。

漠然としていた「年回法要」という行事を 「大事な人追憶法要」もしくは「追憶法座」に看板を掛け替え 商品構成や売り方を変えるというこころみを始めようとしているのです。

そうした試みに馴染むまでに 当然失うものはあると思います。失っていいモノやコトと 失ってはならないモノやコトはしっかり見極めたいと思います。


 

 

エアコン



「今ではクーラーは贅沢品ではない」ということばと 「この暑さは災害」ということばに出会いました。

あるいは「教室は修行の場ではない」ということばも目にしました。

いわれてみたらどのことばも確かにそう思います。

我が家の子供たちが高校や大学の受験勉強をしていたころは 30度くらいになる日はありましたが エアコンは設置していませんでした。

修行のような考えも少しはあって あわせてエアコンは贅沢品という思いも重なっていたと思います。

そして何より私自身がそうしてきたということが エアコンなしで過ごさせることになっていました。

年々の気温上昇のことや子どもの体力などは念頭になく 今思うと「酷であったかなあ」と振り返っています。

このような話題も涼しい風が吹くまでのことですが 温暖化を止めるために自分は何が出来るのだろうかという大きなテーマは忘れないようにしたいと思います。 
 

 

大きな改革は小さな実行の積み重ね


お寺の改革についていろいろお話したり書いているのですが 実現していることはあまりありません。

といっても自分の中では 夢や理想論ばかりを書き綴っているつもりはないのです。

ときにはそれも書きますが 多くは現場で実行している小さなことを書いているのですが でもそれは部品のようなことで 完成した形になって目に見えるまでにはなっていません。

その結果として なにも実現していないことを書き綴っていることになっていることに気づきました。

完成図を漠然と自分の頭の中で描き そのために必要と思いついた手近に出来る部品作りを書き綴るっていることが原因です。

それなら完成図を鮮明にしたら 書いていることの意味が理解できるのではないかと思うのですが 「お寺の変革完成図」はまだ描けそうにありません。

こんな調子で書いているうちに 次第に鮮明になってくるだろうと思いながら書き続けていますが そうなるという感じがしていることは確かです。


 

 

自分が納得できる生き方をしたい


宗教界で行われている行事には ことばの意味がいまひとつ分かりにくいことがあります。

「昔からそういってきた やってきたのだから」という説明では まったく意味が分からないのですが それはそれで説得力はあります。

例えば法事の開催年が 3回忌とか7回忌と間隔をあけてやってくることの説明を 自信をもって行うことが出来ません。

勉強不足といわれるかもわかりませんが 伝道布教をすることが目的なら間が開かない方がいいはずなのですが 間が開きます。

直接の関係者がわからないのですから 一般の人がわからないのは当然で そのような行事が次第に消滅することは仕方がないことです。

ご先祖さまの法事のことを 「こうだから実施しましょう」と強くお勧めしたいのですが 今までいわれていた説明では情熱をもってお勧めしにくいことでした。

こんな仕事のやり方にストレスを感じるようになりましたので 思い切って変更することにしました。

理由がわからない間隔をとびとびに開けて法事をするのではなく 趣旨はご先祖に思いを巡らす「追憶法座」で 毎年の行事にすることを原則にしていただくのです。

「追憶」には 祟りや降りかかる災いを避ける意味はありません。さかのぼって思い出すという意味で説明しようと思います。

繋がって生きている自分に気づくことは 「我に返って」自分の人生を見直す時間になると考えているのです。



  

 

真摯ということ


このたび初めて取り上げた話題ではないと思います。少なくとも3回くらい取り上げ あれこれ書いたように記憶しています。

それほどこのことばが気になっているのです。

真面目 正直 素直 誠実 自我でないことなど いろいろなニュアンスがこもったことばであると感じています。

さらに ドラッカーさんが「経営者に不可欠な資質は真摯であることだ」といわれたことや 親鸞さまが「真実のご利益」という経文を解釈したことばに 注釈をつけておられることが気になっていたのです。

ストレートに向き合うことをやめて 反対のことばで考えてみたら少しわかるように思いました。

私利私欲でない 他人の考えや気持ちを大切にする 自己中心で偏見や差別をもたない生き方といったイメージが浮かびます。

普段の暮らしの中で 意識しながらこのような生き方をすることは出来ませんから 気づかないところで自己中心の生き方が紛れ込みます。

しかしそういう生き方をしている自分を自覚する それを少しでも修正する生き方に気づく機会を持つことは出来ます。

真摯であることは そういう機会を生活の中にもっていることではないかと思っているのです。 



  

 

考え方を考えました



昨日お見えになったお方は 曹洞宗の檀家でした。

そのお方と一緒に浄土真宗の作法でお参りをしたのですが 読経のあとのお話を どのような切り口でお話したらいいだろうかと考えました。

あれこれと考えて 自分が信じてお伝えする宗旨についての受け止め方と表現を変えてみることにしました。

浄土真宗はもちろんですが 曹洞宗や他の宗旨の教祖方どなたも 人々が大事なことに気づく道をお説きになっておられるはずです。

「はず」としかいえないのですが そうでなければそのご宗旨が時代を超えて生き残ることはできないと思いますので 間違いなくそうなのです。

その道の見つけ方と歩き方が宗旨ごとに違うのだという解釈をして 仏法の原点についてお話しすることにしました。

そして「仏道とは自己を習うことだ」という道元さまのことばと 「愚者になって往生するのだ」という法然さまのことばや親鸞さまの生活を紹介しました。

さらにこのことばによって伝わった意味は 「仏法は我に返るための教え」と 私が理解していることをお話ししました。

伝統にしたがったお話を否定するわけではありません。

また経典の解説も大切なことですが 自分の生き方を見失いかねない社会の中に必要なことは 「我に返る」時間をもつことだと考えているのです。

それが仏法の中心であるという考えに考え方を変えようとしているのです。


 

 

いちじくの季節


店頭にいちじくが並び始めたようで 家内がときどき買って来ます。家内はいちじくが大好きだといいます。

でも気候のためかどうかよくわかりませんが 今年のものは甘みが少ないように感じます。

子どもの頃 いちじくの木に登って甘みが最高の実を見つけて食べていましたので 姿を見たら甘いかどうか判別できると思っていました。

ところがどうもその判定の自信がぐらつき始めています。皮の色が濃くなって 押さえると柔らかなものは甘いはずでしたが 今のいちじくにはそうでないものが多いのです。

反対に まだ青く一見して早く採り過ぎたのではないかというようないちじくに 驚くほど甘いものがあります。

これはそのような種類のいちじくなのですが 色や大きさ 口のはじけ具合など いちじくの姿と味が多様化していることに戸惑っています。 

いろいろなモノやコトが多様化してきている時代を上手に生きることは なかなか難しいことですね。