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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

秋刀魚を焼いていただきました



きのうはあいにくの雨でしたが 予定していた秋刀魚焼きの行事をしました。

ボランティアのみなさんにお手伝いして 200匹の秋刀魚を炭火で焼いていただきました。

周囲に煙と匂いをまき散らしながらの作業でしたが 美味しく焼いていただきました。

おにぎりと豚汁もついたお昼ご飯をいただきながら 一緒に食べていた高齢者に「秋刀魚を食べるのは 今年何度目ですか」とおたずねしたら「初めてです」という方ばかりでした。

市場に出かけることも 炭火で焼くことも困難になったのか あるいは面倒な準備が出来にくくなられたのでしょうか。

旬のものを食べることを 大変よろこんでおられました。


 

 

本物と真似ものの差


ペンギンが散歩している姿はいつ見てもかわいいものです。

そのペンギンの姿で つぶれかけた旭山動物園が人気動物園によみがえった有名な話があります。「空飛ぶペンギン」というタイトルで紹介されていますからご存知の方は多かろうと思います。

陸上ではかわいらしい所作で人気者の動物ですが いったん水中に入るとその動きは躍動感あふれるもので 逃げ惑う餌を必ず捉えるスピードがあります。

旭山動物園では その特性を残らず発揮させたいと 水槽づくりと展示方法の話し合いは 生態をもっとも熟知している獣医さんや飼育係が中心になって行われたといいます。

その水槽で見ることが出来るペンギンのパーフォーマンスは 美しく 見る人々は必ず感動されるのです。

ところが同じようにペンギンの水槽をつくっても 圧倒的な迫力とかおもしろさに欠ける動物園もあるようです。

その差は どれだけ注意深くペンギンを観察し 生態を知っているかということの差だと思います。さらにいえばペンギンに対する姿勢で 本能を十分に発揮できるようにしてやりたいと思う愛情の深さの違いだと思ったのです。

姿形をまねることは誰でも出来ますが 思いの深さまでは なかなか真似することはできません。


 

 

カチ栗



カチ栗を作りました。

台風25号が来るという予報で お寺へのお参りがキャンセルになってゆとりの時間をもらいました。

台風の被害はありませんでしたが 強めの風雨によって栗やドングリがいっぱい落ちてきました。

いただいた時間と里山の恵をカチ栗にして 中旬に予定している京都の集まりのお土産にすることを思いつきました。

我が家のカチ栗の作り方は ゆがいた栗に糸を通して軒に吊るすという 簡単な作り方です。

作り方は単純ですが 時間がかかるので家内と二人で夜なべをして作りました。出来上がって数えてみたら372個ありました。

カチ栗は非常食と聞いていましたが 昔のおやつでもありました。

固くなった実を口に入れ しばらくしてやわらかくなったのを食べるのですが 素朴な甘さと口の中の感触を楽しんでいたものです。

美味しいおやつを手軽に買える今日では 振り向かれないものだと思いますが 田舎を出て都会で暮らしておられる人々がどのように思われるのか 楽しみです。


 

 

お寺は非日常体験をするところ



お寺に来て下さる方から 「お寺で過ごす時間は 非日常体験の時間です」といわれました。

そういわれたお方は 関東で事業を営んでいる経営者で 毎月のようにお寺に来られます。

目的は その会社の幹部方の研修といわれているのですが 私には事業のことについて指導するものはありません。半日から一日の間 人生についてお話しして みなさんとお話し合いをするだけです。

人生についてお話しするのですが その内容は仏法から教わる人生の俯瞰とか自分を内観することが中心です。地獄の絵を見たり 茶室で抹茶をいただいたりしながら 自分の生き方にも気づいてもらいます。

そんな数時間が非日常の体験だといわれたのだと解釈していますが 自分の日常を見直すために有意義なこととして評価していただいたのかも知れません。

自分が行っている姿は自分では気づきにくいものですから このような声をお聞かせいただくことはとてもありがたいことです。

お寺はどのように世間に向き合っていけばいいかと考えていますので この一言は響きました。

聴こうとしているかぎり大切なことは聞こえないことも事実ですが 聴こうとしないかぎり聞こえないことも事実です。非日常体験という体験のことを もっと考えたいと思います。

 

 

初ものをいただきました


さっそく里山から届いた秋の贈りもので 栗ご飯を炊きました。

栗の鬼皮は専用の皮むきハサミで 簡単にむけましたが 渋皮には手こずりました。

二合分の栗をむくのに 40分くらい栗と格闘したように思います。出刃を使う右の肩がだるくなるので ときどき肩を休めながら皮むきに集中しました。

隣で夕ご飯の支度をする家内に励まされたり ねぎらわれながら苦労した栗ご飯の美味しさは格別でした。

皮をむきながら 今でも「里の秋」という童謡は歌われているだろうかと ふと思いました。「しずかなしずかな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は・・・・」という歌です。

歌われている木の実とは たぶん栗だろうと思いますが 家のそばに栗の木がある家など 今では山奥に行かないとありません。

そう思うとこの歌の情景が頭に浮かぶ人は少なく 歌はなくなっていくと思われます。

栗めしは 微妙な塩加減が鍵ですが 今年の初ものは絶品の栗めしでした。

「栗めしに 酒が合うとは 思わずや」。昔詠んだ一句です。


 

 

石見人のこと


石見に暮らしていながら 石見のことを知らない自分に気づかされました。

先日 「お寺の屋根瓦のことを聞きたい」といってお客さんがお見えになりました。

お話の趣旨は 石見瓦は日本の国のどの地方まで広がって使われているのか調べているので 光善寺の屋根瓦を見せて欲しいということでした。

残念ながら 30年前に屋根替えをして 古い瓦は処分して残っていません。かろうじて放置して残っている 数点ほどの古瓦を見ていただきました。

その方は 県内はもちろん 広島県の県北や山口県の萩や日本海側の寺社を 3年前から訪問して調査をしておられるという話でした。

訪問した地方の寺社に使われている石見瓦を調べ 製造年代や入手方法などを丹念に調べておられました。

調査された内容がおもしろく すっかり夢中になって時間がたつのを忘れていました。そしてお話しの中にいくつかの発見がありました。

その一つに 石見瓦という名称は 瓦をつくる技術の名称であることを知ったことでした。さらにその高度な技術が 石見の人によって県外に出ていたという事実でした。

瓦は良質な粘土で焼いてつくります。重量があるため 需要の現場近くでつくることが理想です。そのために 瓦を葺く寺社の周辺の周辺で粘土を探し 窯をつき 職人を連れて瓦を焼いておられたのです。

江戸時代のことですから 企業が外国に進出する感覚の出来事に思えます。当時の石見人に そのような気概があったことを知って驚きました。


 

 

小さなことを二つ


仕事の量はもちろん スピードも遅くなっていることを感じます。

今まで持てていた少し重いものが持てなくなることや あまり長い時間動けなくなってきていることもあります。

それを自覚するようになってからは 思い切って一日の仕事量を減らしたのですが 逆に頭に浮かぶやりたいことは増えるような感じがしています。

それでも次々に思いついたものに何でも手をつけているかというと そうではなく かならず立ち止まって整理してから行動を始めます。

重要度とか緊急度 他人に迷惑をかけることにならないかを考えるのです。そのうえで心掛けていることは 大小にかかわらずまた好き嫌いにかかわらず まず急ぐ仕事から始めるということです。

そしてそれを一日に二つまで。ひとつが一日で終わらなこともありますが 簡単に終えられる仕事であっても 二つと決めているのです。

出来映えとか結果のことは深く考えないようになりました。とにかく動かなければ仕事といえないわけで とにかく始めることにしています。

そんな習慣がつくと ゆとりが生まれて仕事がおもしろくなってきたように感じるから不思議です。

 

里山からいただきもの



里山でお住いの人から 「食べてください」といって紙袋をいただきました。

中には さつま芋と柿 そして栗が入っていました。家内と 「秋をいただいたね」と話しながら知人の心遣いをうれしく思いました。

三種類の詰め合わせに 里山で暮らす人々の暮らしぶりを思い 秋を感じたのです。いま里山は秋たけなわなのです。

豊かになった現代では 「実りの秋」という感覚もことばも薄れかけています。さつま芋や柿栗に関心も薄いのではないでしょうか。

自然の恵みに 身体でふれる機会が減ったからだろうと思います。 

自然の恵みは生活実感として身体で感じるものです。空腹を満たしたり 手を汚し家族と協力して食べ物として口にしたとき感じるものです。

社会の進歩を止めてはいけませんが その進歩とともに自然の恵みも忘れないで欲しいと思うのです。


 

 

人の死は「普遍化」すること?


樹木希林さんがお亡くなりになりました。お亡くなりになるひとつきほど前 偶然どこかのテレビ局が密着取材をしている対談を観て境遇などを知りました。

今年「万引き家族」という作品に出演しておられ 観たいと思いながら見逃していたこともあって 樹木希林というお方をもっと知りたいと思う気持ちがありました。

お亡くなりになったあと NHKテレビで2年にわたる密着取材番組を観て 少し深く人柄にふれたような感じがしていました。

そしてお葬式の日 「万引き家族」の監督であった是枝さんの弔辞が代読されている様子も見ました。

その中で間違いでなければ 「樹木さんはお亡くなりになって普遍化した」という意味のことばがありました。いままで私の身近では聞くことがなかったことばで 引っ掛かりました。

もちろん人柄にもよるでしょうが 死という出来事を 芸術の感覚で捉えると「普遍化した」ことになるのだろうかと受け取ったのです。

あるいは樹木さんが 深く仏教に近づいておられて そのようなお話をしておられたのだろうかとも思ったのですが どちらであるのかわかりません。

しかし人の死を その人が「普遍化」して 存命中の愛憎や苦悩を離れ 思い出として昇華することを普遍化といわれたのならわかるような気がします。

強さの中に弱さを見せながら 自分の生き方を貫いて逝かれたことに さわやかさのようなものを感じたからです。


 

 

小さな大事件「スズメバチの巣を発見!」


毎日使っている介護施設の敷地内には専用の温泉があります。その温泉の屋根にスズメバチの巣があることに気づいてくれました。

介護施設から温泉棟への渡り廊下の屋根に隠れて見えなかったようで 発見時には20センチを超える大きさになっていました。

さっそく専門業者にお願いして駆除することにしたのですが このサイズになるまで頑張った巣を壊してしまうことはもちろんですが 沢山な蜂を殺すことに少しだけ心が痛みます。

ちょっと考えて見てください。

人間の社会のにたとえたら 時間をかけ建設用地を探して ローンを組んで家を建て始めたとたんに潰されてしまうことと同じ状況です。

駆除業者の作業は スプレイ式の強烈な殺虫剤を吹きつけ まず室内で作業をしている蜂たちを全滅させます。資材や食料を運んで戻ってきた蜂たちは そこに瀕死で苦しんでいる仲間を見つけ右往左往するのです。

怒りをぶちまける暇もなく 補償を求めたり仕返しをする相手もわからないままに やがて死んでしまうことになります。

わが身と施設の利用者を守るために 人間である私はずいぶんおそろしいことをお願いしたのです。

スズメバチの死骸を見ながら 自分は恐ろしいことをしていると自覚する心を忘れてはならないと思います。