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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

介護



「これは当たり前のことですよ」といわれて驚きました。

昨日お参りしたお宅には 2匹の柴犬がいます。そのうちの1匹は老犬で 介護が必要になっています。

飼い主であるご主人の仕事は 人間の介護をする介護職。人間とペットの介護をしておられるわけです。

自宅の庭にペットの介護施設ができていました。

夏の虫や蚊が入らないように金網が張られ とくにこの侵入を避けるための蚊よけ装置もしてありました。

昨日の深夜に ミルクを飲ませしばらく身体をなでで寝かしつけたそうですが 眠れないときは10分くらい体をなでてやると 安心して寝るとお聞きしました。

また視覚と嗅覚が衰えたらしく 食事介助も必要になっているといいます。食器を顔の前に持っていき 食べ終わるまで介助。

「今年の夏まで生きられるかどうか」というつぶやきを聞きました。

生き物を飼うということは ここまで覚悟することだと教わりました。


 

 

失敗で学ぶ



「失敗してもいいから挑戦してみる」ということばは 比較的多く聞くことばです。

そのことばを体験する機会があり その通りだと思いました。

外食する機会があり 「串カツバイキング」というお店に行きました。もちろん初めてです。

わざわざ探して行ったのではなく 「何を食べようか」と食堂街を歩いていて見つけたのです。

昼食時間が過ぎていたので 食堂街にはお客さんはまばらでした。

そのとき「串カツ」が食べたかったわけではありませんが バイキングになっているというのが珍しいと思ってそのお店に入ったのです。

私のイメージには調理済み串カツのバイキングと思ったのですが 違っていました。

テーブルにはフライヤーがあり 自分で食材を選び 自分で揚げるシステムになっていたのです。

出来上がった串を選ぶ楽しさを期待したのですが 調理をする手間など考えていませんでした。

手間がかかることや 揚げ時間に注意しなければならないことで味わって食べることは出来ませんでした。

入店のときにシステムを確認する大切さを学びました。


 

 

マスクが届きました



本日発表されていたマスクが届きました。

いただいたことにまず感謝いたします。

感謝していただきますが ありがたさが薄いのは申し訳ないことです。

あちらこちらのお店には 「マスクあります」という張り紙があり 値段も安くなっています。

タイミングを逃せばありがたみがなくなるという事実。
官と民のスピードに違い。

今までいわれてきた仕事のことを 同時に実感することになりました。

それにしても 商品代や送付の料金をかけても 喜びが薄い仕事に携わった人はたまらないだろうと思います。

税金が使われたのでしょうが 払っている人にとっても残念です。

配り方だけでも工夫して欲しいと思いました。


 

 

ハゼの木



ハゼの木を伐っています。

我が家の前の道端に群生して 大きくなったハゼの木を伐ってもらっています。

雨上がりで葉っぱが濡れているとき 雫が顔などにかかるとかぶれることがあります。

すっかり乾いてから伐っていただきました。

作業をしてくだった方のお話では 乾燥したらかぶれることはないそうですので しばらくは放置しておくことになります。

秋になると真っ赤に色づいて楽しませてくれましたが 不注意に触れることもあり用心のために伐りました。

昔はこの実を集め 蝋をつくったらしいのですが 今はつくりません。

時代とともに人間の暮らしが変わり 必要な樹木も変わるのです。

人間の都合で環境を変えていることを学んでいます。


 

 

生老病死



「生老病死」という四文字熟語は仏教のことばです。

大方の人は「しょうろうびょうし」と読みます。

聞いた人も そのことばが人生を表現する意味であることを知っています。

ところがまれに 「しょうろうびょうし」といわず 「せいろうびょうし」と読む人もあります。

ここまでは許されますが どこかの学生さんが「なまろうびょうし」と読まれたという話を読みました。

仏教のことばが通用しなくなってきている現実を知らされます。

その人が特別な人ではないと思います。

仏教とか宗教が社会から消えようとしている現実と考えています。


 

 

怖いモノ



私には怖いモノがなくなってきていると思っていたのですが 実はありました。

本を読んでいるとき そのことに気づくことができました。

私にとって怖いモノは 「失敗という自己採点をする」ことでした。

失敗するか成功するか やってみなければわからないことです。

お寺のことについて 「こうしたい」とか「こうしなければいけない」と考えることはたくさんあるのですが どれ一つとしてやっていません。

周辺にあることには手をつけても 核心のことに手がつかなかったのです。

本から 「それは失敗が怖いからだよ」といわれたのです。

「晩節を汚さなくても」というためらいがあります。「やり遂げるまで生きる自信があったのですか」と揶揄されるのもいやです。

知らず知らずのうちにそんなことを感じて 実行に踏み切る足元に臆病風が吹いました。

「自尊心」は 気づかないうちに「臆病心」に変わるものです。

卵を割らなければオムレツは作れない」ということばが響きました。 


 

 

施本



このような方法で本をいただくことが減っていたのですが 突然一冊の小冊子が届きました。

俳句の結社に籍を置いていたころには 結社のメンバーさんが自費出版された自分の句集がよく届いていました。

もちろんおつきあいはなく 同じグループに所属しているだけの人からです。

俳句の本は結社から退会してから途絶えていたのですが このたびお寺さんから届いたんです。

『宗教への道程』という 60ページほどの冊子です。

面識がない島根県のお寺の住職さんで ご高齢になってから出版を思いつかれたようです。

冊子の題名の下に 「サピエンス全史からブディズム玄関まで」という副題に目が留まり めくり始めました。

学者さんではないので ご自分の思いを懸命に表現されていることがとても新鮮でした。

その中に いままで気になっていたいたことがさらりと書いてあってうれしくなりました。

感想とともに さっそくお礼状を書きました。


 

 

かげふみ



なぜかよくわからいのですが 「かげふみ」のことが頭に浮かびました。

「かげふみ」は もう死語の引き出しに入れられてしまったことばです。

煌々と降る月の光の庭で ときには学校帰りの道などで遊ぶ 子供の遊びのことです。

お互いが 相手の影を踏んだり踏ませないように逃げ回るといった単純な遊びでした。

なぜこのようなたわいもない遊びのことが脳裏に浮かんだのか 考えていました。

影は実態ではないのですが 「三尺下がって師の影を踏まず」ということわざのように 実態が映すものを実態と同じようにみる思い方があったのです。

お世話になったお方がお亡くなりになったというお知らせを受け ご遺体を前にして生前のお姿が蘇ったのです。

お別れのときに浮かぶ人の一生は 何かの光に照らされて見える影の一コマと思ったのです。

熱心に仏法を聞いておられた故人のお姿に 合掌された影が見えたように感じました。


 

 

将来の夢はお坊さんになること



「あなたは将来何になりたいですか?」と問われて 「お坊さんになりたいです」という子供はどのくらいいるでしょうか。

「生まれ変わることができたとしたら 何になりたいですか?」とたずねられ 「お坊さんもいいなあ」と答える大人がおられるでしょうか。

社長さんでもなし 政治家やタレントさんなどでもなく お坊さんの存在感は世間から忘れられてしまっています。

新型コロナウイルスの騒動は 人類および社会全体を揺るがす出来事です。

とくに医療 経済 教育 政治 心理などの分野の問題としてクローズアップされていますが 宗教の課題としてはまったく姿が見えません。

家族葬が増えたとか 法座も集会であるとかいった現象の話題が聞こえる程度のことです。

ところがこれは一例ですが 仏教には感染防止のために発表された「自粛」の意味の深さが説かれています。

「うつさない」「心配をかけない」ということと 自粛を学びに変える知恵を生む深い思想が説かれているのです。

あちこちのお寺でそのような発信が始まると 「お坊さんになりたい」という人が出てこられることもあるのでは と淡い期待をしているのですが。


 

 

初めての道を



散歩の習慣が少しずつ身につき始めています。

車で通り過ぎていた道端に ユウガオの花やホタルブクロが咲いているのを見て感動しています。

散歩コースは決まっていません。

その日の気分によってコースを変え できるだけ新しい道を選んで歩きます。

同じコースを歩くと安心ですが 新しい体験をすることはグーンと減ります。

たしかに思った以上に坂が急で辛かったり 倒木で通りにくかったりするリスクはあります。

それでも リスクよりも発見の方が断然おもしろいのです。

新しいコースに挑戦することは 人生の選択肢を広くする訓練にもなると思います。

安心だからといって同じ道を歩き 変化を嫌う暮らしもありますが 高齢になってもワクワクしたいのです。