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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

ビジョンの中心


『ライク・ア・ヴァージン』という本を読んでします。

作者はブランソン・リチャードという人で、「経営学など勉強しなかったから成功した」という趣旨の見出しを読んで衝動買いをした本です。

その中に、自分の「ビジョンの中心」が明確であることがたいせつだと書かれていました。

アップルのステイーブ・ジョブズのビジョンの中心は製品、ヴァージン社のビジョンの中心はサービスと書いてあったのです。

読みながら、これは私のクセですが、お寺のビジョンはなんだろうとボールペンをもってメモ書きをしてみました。

知識を伝えることではないし、宗教文化を守ることでもないだろう、それではいったい何だろうと数日間考えていました。

そして「これだ」と断言するまで固まってはいませんが、ビジョンの中心は「物語」ではないかとひらめいたのです。

神話とか経典は物語です。あるいは仏教説話もそのひとつです。その物語りから信仰心が芽生え、芸術や文化も生まれています。

仏法の物語を語りながら、人間が無意識に求めているものに響く物語を完成していくことを「ビジョンの中心」にしようと思いついたのです。


 

 

文章化出来ないもの


伝えたいことがあっても、それを文章や図によって伝えられるものと伝えられないものがあります。

例えばお花の生け方については、文章や図によって伝えにくいように思えますがビデオなどの器機を使うことによって伝えることが出来ます。

あるいは自転車の乗り方のようなことは、指導する人がいっしょにいて練習することによって伝授することが出来ます。

ところが仏神を信じるというような内面のことは、指導者による訓練やビデオ解説などによって伝えることはとても困難です。

このような精神内のことを伝える方法として、ほぼ唯一のように行われていることが宗教文化の行事です。雰囲気や伝統行事などによって、受け取る人の自覚を促すことで伝えてきたのだと思います。

仏教には、人がお亡くなりになった後、七日ごとにお参りするという行事があります。最近になってやっと、このお参りの目的がわかったように思いました。

私は浄土真宗という宗旨ですが、お参りのとき『仏説阿弥陀経』という経典をていねいに読むことにしています。

経典の中には、私たちが見ることが出来ないお浄土の様子が詳しく解説されています。その様子をお話しすることによって、死後の有無とか、お亡くなりになった人への執着を離れることが出来ると気づいたからです。

「仏さまはいらっしゃる」、「お浄土がある」。

一度お話しを聞いて腑に落ちることはないでしょうが、そのお話しを聞いたという体験は残ります。伝える場所、伝えるとき、そして伝える物語を大切にしようと思います。


 

 

信用


アイホンでグーグルのカーナビとつなぎ、「空港まで45分くらいで行けそうだから、7時に出発しよう」と娘がいいました。

それを聞きながら、「ほんとにカーナビの情報は信用していいのか?」と思っていました。道案内にしても混雑状況にしても、機械が教えてくれるものを100%信用することに少なからず不安があるのです。

そうかといって自分自身で情報を集めることは出来ないので、一応は受け入れて従うのですがやはり不安感が残るのです。

そういう自分が機械の塊である飛行機に乗ったり車を運転するのですがそのときは不思議なことに不安感がないのです。同じように、宇宙飛行士のみなさんがロケットに乗り込まれるときもきっとそのような心境だと思います。

落ちたら必ず死ぬ状況とわかっていても機械を信用しきっているわけです。

自分の理解を超えたこととか手に負えないことに対しては、心配することが出来ないので信用しているのかも知れません。

そのように考えたら、私たちが信用していることは、「わからないからまかせている」ということなのでしょう。


 

 

読み解く



読み解くということばがあります。「ああ、深い表現だなあ」と思いました。

経典を読んでいますと、私たちが日常で使っていることばに突然出会うことがあります。例えば救済とか歓喜とかいうことばですが、このことばを現在の感覚で理解したら、そのことばの本意を誤ることになると気づいたのです。

そこにそのことばが使われた社会背景や、お使いになった人物について考えながら読む。それが「読み解く」という意味でした。

「融資して救済しよう」と使用している救済ということばの意味が、「如来に救われる」という救いとまったく同じ意味ではないのです。

困ったときとか絶望の状態が解決される事実が、如来の救いと同じことではないのです。

如来の救いということばは、一時的で表面的な状況の救いではなく、死を抱えて生きる覚悟が決まるといういのちの救いなのです。

経済的な行き詰まりによる苦悩とか病気などによる苦悩を抱えながら、その状況の中で生きることが出来るということです。

読み解くことの大切さを感じながら経典と向かい合っています。

 

 

年末年始の休みが終わりました


今日は福祉施設の仕事始めです。といっても、介護には年末年始もお休みはありませんでした。

人が生きるということには、お休みするという時間がありません。食べる飲む、そして排泄などは待ったなしでおこります。

気が緩みがちな休日期間、介護者は注意深く事故なく役目を果たしたようです。ありがたいことです。

同じようにお寺にもお正月休暇はありません。「死」という出来事は予定することが出来ないからです。


世間は豊かになるにつれ休日を増やそうという傾向になります。集中して働いて収入を得て、それから長い休みを取ることが豊かさだと思い始めているのです。

それは暮らしの質を高めるということでは悪いことではないと思うのですが、豊かさを追い続けることによって、いのちには終わりがあるということが忘れがちになることを心配します。

難しいことですが、「老病死」の現実を忘れずメリハリをつけた暮らし方を探したいと思います。
 

 

伝統で伝わっているものがある


仏法を伝えるためには変化しなければならないという思いは爆発寸前の状態になっています。

そのための試行錯誤を繰り返し、小さな変化は続けているのですがまだ爆発していません。

爆発するような派手さはなくても、小さな変化の積み重ねが大切なのかもわかりません。

失敗したときの不安とかおそれ、笑われたら困るといったプライドはないのですが、伝統を破壊することの心配は払拭できないのです。

定着している伝統やイメージがすっかり変わったとしても、伝える仏法の内容が変わるわけではないという思いはあります。

しかし一方で、仏法の内容は行事とか仏教文化といった伝統によって伝わっているということも否定できないのです。

頭の中でこのような思考を繰り返しながら、寺号に変えて「気づき研修所」としての活動に舵を切ることにしました。



 

 

先入観


60代後半で一人暮らしをしておられる男性の家にお参りしました。

お手洗いを借りたとき廊下にギターが置かれているのを見て、「ギターを弾くの?」と尋ねました。

関西の会社に就職して寮に入ったとき、寮の先輩が弾くギターに魅せられて始めたと話してくれました。「待ってました」といわんばかりの話しぶりで、修得した曲のことや練習方法などを聞かせてくれました。

日ごろのおつきあいでは知ることがなかった趣味があったことにまず驚きました。

しばらく話していたら、突然「弾いてみましょうか」といって、ギターを取ってきて弾き始めたのです。

毎晩のように触っているという演奏の腕前にも驚きましたが、それよりも驚いたのはその積極さでした。

その驚きは、日ごろの生活や性格についてあまりにも知らなかったための驚きでした。

おつきあいがある人のことを積極的に知ろうとしなかったためですが、いつの間にか人に対する先入観のようなものが定着していたのです。


 

 

新しい年になりました


お早うございます。さあ新しい年の始まりです。といっても昨日の続きで、衣服を変えても自分は変わっていません。

そうではありますが、挑戦するエネルギーとして使わせていただくことにします。

昨夜は恒例行事の除夜の鐘撞きでした。11時半ころから撞き始め、12時20分ごろには終わりました。

現在では、除夜の鐘を百八つ撞いて一年の煩悩を消すなどといういい伝えがどれほど熱心に語られているのでしょうか。

伝える人が本気で、伝えてもらう人が純心なら何かが少しは響くでしょうが、さてどんなものでしょう。

鐘を撞いていただく私としては、仏法は伝統行事の中に潜んでいるという思いで、伝統を守ろうと思っているのです。

消しても消しても湧き出てくる煩悩の存在に気づくことが仏法の原点なのですから。

煩悩に押しつぶされないように、煩悩を抱え込まないように、「やさしく つよく おもしろく」暮らします。

 

 

一年の締めくくり



一年の締めくくりとして今年やって来たことを整理して見ようと思いつきました。

このような整理をいままでやったことはないのですが、新しいことに挑戦を始めたこともあるので、足もとを確認するような感じで書いています。

まず第一に自分の目標をことばにすることが出来ました。目標は、ご縁がある人に「仏法を教わりました」と評価してもらうことです。

「やさしく つよく おもしろく」生きようと思ってくださる人が出てくださることを目標にしたのです。


次にホームページを新しくしたことです。私はネット寺院を造ろうというつもりはありません。いろいろな人との関わり方を探すのに、ホームページをつくるプロセスが役に立つと思っているわけです。

「お寺の便り」や「封筒」、「年賀状」などのイメージを変えました。お寺を「気づき研究所」にしようと思っているのです。

そして、この地で「おもしろく」生きておられるお方を探し始めました。いっしょに生活の中にある仏法を学ぼうと思っているのです。


たくさんご縁をいただきありがとうございました。
 

 

美味しさ



3歳過ぎた孫が、買ったばかりの土鍋で炊いたご飯をたくさん食べました。

もともとご飯が好きな子どもですが、あまりにも勢いよくたくさん食べるのできっと土鍋のご飯が美味しかったのだろうという話しになりました。

私たち大人は五感を使ってものを食べています。目で見て、匂いを嗅いで、あるいは食材の由来や調理中の音を聞いて味覚を刺激しています。

そのようにして美味しさを確かめているはずですが、土鍋で炊いたご飯を食べた子どもが五感を使っていたのかどうか疑問です。

土鍋を使って炊いたことも知らず、炊きあがったご飯の色が違っていたわけではないのです。子どもはただ舌の感覚だけで美味しさを感じていたと思うのです。

そんなことを考えると、美味しさは子どもに判定させるのが一番ではないかと思うのです。

「ミシュランの星は子どもにつけてもらう」、考えただけでも楽しくなります。

お皿や盛り付け方、食材の組み合わせなどの面倒なことは大人が考えることで、美味しさの極みは舌の感覚で判断するものだと思うのです。