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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

一年で一番大きな行事を迎えます



浄土真宗のお寺で一番大きな行事は「報恩講」と呼ばれる法座です。宗祖である親鸞聖人をしのんで営む法事を「報恩講」と呼んでいます。

年間の最大行事であり、この行事をきっかけにお寺に仏法に近づいていただきたいという願いがありますので、その準備は入念に行います。

大勢の皆さんの協力をいただきながら、掃除やもてなしの準備、そして仏前の飾り付けなどを行います。

飾りには大きなお花をお供えしますが、そのお花は松と決めています。仏さまの前に置くにふさわしい大きさと形の松を、枝を組み合わせながらつくるのです。

一応は「池坊流立華」の基本に習ってつくるのですが、私のお寺では天然の樹形に葉をつけていくという方法で作り上げます。

この作業が始まると、「さあ、いよいよ報恩講が始まるぞ」と気合いが入るのです。

今年は新たにスタッフが一人増え、五人のスタッフでみごとに完成させました。毎年同じ形にならないのは当然ですが、今年はダイナミックなお花が出来上がりました。

花づくりに参加することも仏法へ近づく道、それを飾られた仏さまに手を合わせることも仏縁。

大々的にスタッフの募集はしていませんが、興味ある方は声をかけておいてください。次回にはお誘いいたします。


 

 

うけいれる楽しさ

現実をうけいれることは楽しいものだと思うようになりました。過疎という現実、地域の高齢化という現実についてうけいれるということです。

先日NHKテレビの「シブ五時」という番組で、「寺が消える」という報道がありました。そこで紹介されたのは邑南町の浄土真宗のお寺でした。

放送の冒頭でタイトルとともに映されたお寺が、私の祖父が生まれ育ったお寺であったことに淋しさを感じました。

そのような現実の中に暮らしているのですが、その現実を積極的に受け入れ始めています。現実を変えようとするのではなく、自分が変わろうと思っているのです。

お寺をどうするかと考えるのではなく、現実をどう生きるかを考えようとしているのです。

今の暮らしの中で楽しみを見つけることを考え、周囲の人たちにもそうして欲しいと思い始めているのです。

そのためには変わって楽しんでいるモデルの発見とか、変わる発想についてのヒントを紹介する必要があります。

現実の中にそのような楽しい役目があることに気づいて、うけいれる楽しさを感じ始めているのです。

 

 

こんな人が暮らすまち

昨日の午後、電話で「今からお寺を出てお邪魔しようと思いますが」とだけ話し、懇意にさせていただいているお方のお宅に向かいました。

差し上げたいものがあったのでお届けしようと思ったのです。

その方のお住まいは急傾斜の石段の上にあって、玄関まで少し時間がかかります。雨のときや荷物があるときは、一休みしたくなる石段です。

国道を走らせてお宅への進入路に近づいたとき、入り口に腰掛けて座っておられるご本人を見つけました。

私を待って下さっていたのです。階段を上らせては申し訳ないと気遣って下さったことは明白でした。

高齢化した地域で暮らす人にとって、このような心遣いはとてもうれしいものです。小さな思いやりですが、これが布施というものだと思いました。

お金ではない布施のことを「無財の七施」といいます。柔和な顔、優しいことばかけなど、自分の身体で出来る七つのほどこしのことです。

このお方が階段の下まで降りて待って下さったことは、自分の体力と時間を相手のために使うという「身施」なのです。

簡単に用件を済ませ、次のお参りに行きましたが、こころ和む一日を過ごすことが出来ました。

私たちの周囲に、こんな人が暮らしておられることをうれしく思います。

 

「よさこい連」のこと

一昨日お参りしたお宅では新鮮な話題で盛り上がりました。

そのお宅には二十歳過ぎの娘さんがいらっしゃるのですが、ご両親と一緒にお参りして下さいました。

都合がつくかぎり家族揃ってお参りされるお宅で、その日が土曜日だったので仕事がお休みだったようです。

その娘さんが隣の浜田市の「よさこい連」のメンバーで、その日の午後から踊りに出かけるといわれたのです。高知のよさこいだそうで、お話の中で県内に「よさこい連」がたくさんあることを知りました。

テレビなどで、リズムに乗って鳴子を打ちながら華やかに踊る様子は見たことがり、遠くなので行けないとあきらめていたのです。そのチームが近くにあり、その踊り子さんが身近におられたことに驚いたのです。

何度かお目にかかっていたその娘さんが、あの華やかな「よさこい」をの踊っておられるとは思えませんでした。

お父さんのお話では、「娘はよさこいに出会ってすっかり変わりました。前向きに、積極的に暮らすようになりました」と打ち明けて下さいました。

お話しのように、とてもよく笑いよく話しておられました。「たかがよさこい。されどよさこい」なのです。

 

 

石見智翠館高等学校吹奏楽部定期公演会

「石見智翠館高等学校吹奏楽部定期公演会」という長めのタイトルの公演会に行って来ました。

午後五時半開演で、15分間の休憩をはさみ終了が8時すぎ。長時間でしたが堪能しました。

若者らしいストレートな表現がホール全体に響いて圧倒されて聞いていました。

演奏のテクニックとか、曲の表現といった細かいことにとらわれないで、とにかく演奏を楽しむという姿勢に若者のエネルギーが吹き出ていました。

公演会はすでに17回目になるそうですが、今まで一度も出会うことが出来ませんでした。

今回は石見神楽とのコラボが計画されていて、これもみごとでした。オロチの物語が、和太鼓と横笛も加わった大迫力の吹奏楽で演じられ、いつもと違って神楽の美しさを感じました。

作曲は地元にお住まいの先生。神楽の舞いも演奏もすべて高校生。

このようなすばらしい高校生のクラブが近くにあることを知ってうれしくなりました。


 

 

梨を収穫しました

オーナーになっていた梨が収穫期になったというお知らせが届きました。

少しスケヂュールがハードな時期でしたが、天気予報を見ながら収獲に出かけました。

愛宕という品種の梨で、私たちがいただくことになっていた樹には90個の実がついていました。梨園の経営者の横山さんが、もう10個プレゼントしてくださって、100個の梨を収穫して帰りました。

当初の予定では、孫やお世話になっている人と一緒にでかけようと思っていたのですがスケヂュールが合わずに、二人で出かけました。

初めてのことで十分な準備をしないで出かけ、梨の実の扱い方を教わりながらの2時間でした。

一年かかってつけた実はずっしりと重く、一つ一つをもぎながら、大地と太陽や雨そして管理する人の思いと労働の恵であることを実感しました。

味がまろやかになるまでしばらく置いた方がいいとアドバイスをいただきましたが、待てそうにありません。


 

 

長話し

お寺ではお説教を聞くことが出来ます。

「お説教」といっても、親が子供に対して注意をしたり、人生を説くという内容のものではありません。

仏教の教えを聞かせていただくもので、そのお話はお寺で聞くことが出来るのです。

集まってくださる方はそのために集まっておられるのですが、日常では話題にならない仏さまのお話ですから理解することは容易ではありません。

またお話しくださる布教使の力量とか話し方によって、理解度は変わります。

その事実は、お寺でお説教される布教使さんも十分理解しておられ、ユーモアを交えながら平易なことば遣いを心がけておられます。

お説教を聞かせていただく機会は少なくありませんが、お聞きしながら気になることがあります。

内容とか技術のことではなく、お話の時間のことです。お話の時間は短い方がいいということです。

聞く人の集中力を考えると、30分が限界ではないかと思うのです。

「もっと聞きたい」「もう一度聞きたい」というお話しをしてくださった人たちは、お話し時間が短いお方でした。


 

 

椎茸が採れます

我が家の椎茸が食べごろサイズになって、連日のようにどなたかのお宅に届けられています。

雨上がりの翌日には傘を開いた椎茸の大きさに驚かされます。

椎茸を採るのは家内の仕事で、楽しそうに庭に出て行きます。朝晩が寒くなってきましたがいつまで採れるものなのでしょうか。

我が家では、舞茸や椎茸を焼いていただくようにしています。

焼きたてのあついものを、塩味だけで食べるという食べ方にはまっています。

焼き加減によって香りとか歯応えが変わりますので、どのあたりが一番美味しい食べごろかを研究しているところです。

 

 

カメムシが地獄に案内してくれます

今年はどこのお宅にお邪魔してもカメムシの姿を見かけます。

お寺の本堂や控え室などでは、大変な数のカメムシを見かけることもあります。

最初のころはティッシュペーパーに匂いを出さないように丸め込むという手法で処理していましたが、それでは追っつかないことに気づきました。

ガムテープを手元に置いて、姿を見かけると背中の上からテープを貼り付け、周辺を閉じて匂いごと閉じ込める方法に変えました。

カメムシは窒息するか、ゴミと一緒に焼却場に運ばれることになるのですが、そんなことを何度も繰り返しながらやはり心は痛みます。

カメムシにはなんの罪もないのです。しなくて済むことならせずにおきたい殺生という行為をしているからです。

私たち人間が、気づかずにふれたときに出す匂いが嫌いだからそうしているのです。

まったく身勝手な私は、カメムシによって地獄へ堕とされているのです。でも止められないのです。

 

 

現実

数日前にお姿を見た人が、お二人続いてお亡くなりになりました。

お一人は、毎日のように往来する道を、ボランティアで草刈りをしてくださっていた男性です。たしか一週間前にお姿をお見かけしたと思います。

もう一方はご高齢のご婦人でした。デイサービスにお見えになったとき握手してひとこと言葉を交わした3日後のお別れでした。

人生は「無常」とか「風中の灯火」といいますが、その現実を実感させられました。

だからといって、自分はどう生きなければということにはなかなか結びつきません。

そのとき驚きが消えない間くらいな短い時間、身辺や仕事を整理しておかなければなどと思いますが、間もなく忘れます。

「メメントモリ」(死を忘れるな)というギリシャ時代の格言、「明日死ぬかのように生きよ」というガンジーさんのことばも知っています。知ってはいても、そのようなことを意識して生きてはいないのです。おそらく私だけではないと思います。

その現実の中で思うことは、やはり「今日一日を、今を大切に生きる」ということに尽きると思っています。