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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

準備



21日と22日はお寺で法座を開きます。

法座というのは、仏法を聴聞する行事のことで、「法座を立てる」と呼んでいたお寺のイベントです。

二日間開く法座ですが、そのための準備は数週間前から始まっています。チラシやダイレクトメールでのお知らせはとっくに終えましたが、境内の清掃は一週間前に行いました。

天候を見ながら行うことなので、雨という予報を気にしていましたが雨の心配はなくなりました。この時期には草が一斉に伸び始めます。その草をていねいに抜いていただききれいにしていただきました。

あとは当日、朝から本堂内外の掃除と荘厳です。それまでにお供えものの手配とかお花、お参りの子供たち家族への接待を準備するのですが、これも抜かりなく準備しなければなりません。

ことを行うためには事前の準備が欠かせません。いつものこととしてマニュアル通りに準備することも出来ますが、季節の変化や、常連のお方の体調なども考えながら準備をします。

今回の法座には小学校に入学した子どもさんやそのご家族さんもお招きします。さて当日のお天気はどうでしょうか。

 

 

肌で感じる


「肌で感じる」ということばを聞くことが少なくなったように思うのですが気のせいでしょうか。

研修はエアコンの効いた部屋で、パワーポイントや資料を駆使して行われることが多く、現場研修も現場視察後に時間を割かれているように感じます。

その場の温度や匂い、あるいは空気の動きや音など、五感で感じることを肌で感じるといいます。頭で知識として理解するというより、全身で知識以外の何かを感じることをいったことばです。

たとえばお葬式の場で人生を感じることなどは、人生を肌で感じるといえる例だと思います。

「人生は必ず終るものだ」とか「死んでしまったらつまらない」という建前のことではありません。

その人との出会いによっていただいた思い出や、遺族が悲しまれている様子を見ながら、無意識のうちに何かを感じているのではないかと思うのです。それが人生を肌で感じることなのだと思っているのです。

間違いなく死の方に向かっている自分は、何をめざして生きているのかという自問が生まれるときだと思うのです。そのような問は、肌で感じるからこそ起こる問だと思います。


 

 

真実


桜が終わり、木蓮やチューリップが花びらを落とし始めています。椿は早くから散り始めて、当分は路を汚します。

春の花が終わるとやがて夏の草花を見ることになりますが、落ちた花を見てふと人生に出会ったような気がしました。

落ちて朽ち始めているものや落ちたばかりの椿の花を見ながら、花を落とした樹を見上げたのです。

そこにはやがて落ちる花がついていましたが、やがてその花も落ちて落とした樹が残ります。何かを成し遂げて落ちた花の姿はかりでなく、そこにある何かを残された樹を見上げて人生に出会ったような気がしたのです。

花を落としたことなど気づこうともせず、何ごともなかったかのように樹は立っていました。しかし目には見えませんが間違いなく少し大きくなり少し根を伸ばしているのです。

自然の変化に逆らうことなく、椿は椿の性質に従って変化しているのです。人間だって自分の性質に従って変化していますが、はたしてよくなっているのだろうかと考えたのです。


 

 

自分の考えは正しい


すべてのお坊さんがそうであるとはいいませんが、お坊さんには自分は正しく生きている、自分の考えは正しいという思い込みが強いところがあるようです。私もその一人です。

教えを説く立場になると、つい間違っていることや教えを外れていることが目につきます。

先日お坊さんのツイッターに、通夜で出されたお弁当の写真が出ていました。そのコメントに、精進料理でないことへの批判が書かれていたのです。

通夜とかお葬式のときの振る舞いは、精進料理で行うのが常識という思いで書かれていると推察して読みました。

今の時代に、生くさい料理で通夜の接待をすることは間違っているのでしょうか。正しいことを知っているという思いがあるとつい批判したくなりますが、私には間違っていると思えないのです。

いまどき、精進料理のお弁当を準備してくださる仕出し屋さんは簡単には見つかりません。料理に欠かせない出汁一つにしても、カツオとかイリコが入っているでしょう。食材集めも簡単ではないはずです。

精進料理でないことを仕方なく容認するのではなく、また古い時代と比べることもしないで、あらためて通夜とかお葬式を営む意味を一緒に考えることが大事に思うのです。

死別という特別な状況の中で、お坊さんは何を感じていただこうとするのか。私は、限られた出会いの場でのひとことを準備することに注力したいと思うようになっているのですが。


 

 

地震のお見舞いのお礼


先日、島根県で大きな地震が発生しました。沢山のお方から、いち早くお見舞の電話をいただきありがとうございます。

テレビのニュースで「島根県西部で地震発生」と報道されたので、問い合わせやお見舞いの電話をいただいたのです。

震源地に近い地域では家屋や道路などに被害が出ましたが、私が暮らしている地域には特別な被害はありませんでした。

中には思いがけないお方からも電話もいただいたりして、もちろんうれしく思いましたが驚きもありました。

考えてみたら、思いがけないお方はすべて地域の出身者でした。「島根」ということばに素早く反応されたのでしょう。

いつまでたっても、どこで暮らしていても、生まれ故郷への思いは消えないことを知りました。

しばらくは油断が出来ないので、避難のことや被災対策のことを忘れないようにして過ごします。

ありがとうございました。


 

 

山菜を食べています


いろいろな山菜が出回る季節になりました。

今年口にした山菜は、ふきのとう、たらの芽、よもぎ、わさび、ぼうふう、のびる、こごみ、たけのこ、ふき。

書き出してみたら結構な種類の山菜を賞味していました。

これからわらびも食べる機会があろと思いますので、この季節は田舎の暮らしが満喫できます。

​山菜にはもう一つの楽しみがあります。食べるだけではなく摘むことも捨てがたい楽しみです。

私たちは、特別な時間をつくって野山に出かけることはありません。あらかじめ家の周囲で目星をつけていた山菜を、食べごろを見計らって、夕食準備の前に摘むのです。

​摘みながら今年も季節のものをいただくことが出来ると実感することがうれしいのです。

ハウス栽培とか量産に適さない山菜には、季節感やのどかな暮らしとともに、生きていることが実感できるような気がします。


 

 

髭剃りの刃


昔からシックの髭剃りを愛用しています。

20年位前からでしょうか、その替え刃が二枚重ねた「二枚刃」とか三枚重ねた「三枚刃」になって出始めたのです。当然ながら価格も上がりました。

当初の一枚刃の髭剃りが売り場から消えてしまったので、仕方なしに三枚刃四枚刃と値段の高いものを使うようになっていました。

髭剃りの機能は少しよくなり、剃り心地もたしかによくなりました。

その四枚刃を長い間愛用していたのですが、しばらく前から五枚刃が売り場に出現したのです。

それを見ながら「私は四枚刃で十分」と意地のように使い続けていたのですが、ついにその四枚刃が売り場から消え始め、三枚刃か五枚刃の二種類になってしまったのです。

いまさら三枚刃を使いたくないので、仕方なく先日ついに五枚刃を購入しました。

使用感はよくなりましたが、メーカーの巧みな戦略に乗せられているようで手放しの満足感が生まれません。困った性格です。

 

 

包装



香典のお返しにお「香」をいただきました。立派な桐箱に入って郵送されてきました。中に入っていたお香には、「奇南」と表示されていて相当純度の高いものだ思います。

お香は、香りを聞くものですが、その香りも一瞬のうちに消えるものです。また見た目は木のクズのようなもので、焚くまで香りはわかりません。

そんな品物を贈るときは、包装で「価値」を知らせようとすることになるわけです。

高級な年代物のお酒とかあるいは有名ブランドの陶器類などの商品には、豪華なパッケージが用いられているようです。

包装とか容器は品物だけに限ったことではないと思います。これを物品と同じように扱うことは出来ませんが、たとえばご遺体やお骨の入れ物。

素焼きだった納骨の壺に、絵柄入りの陶器とか磁器のような高級品が出現し、棺までも豪華なクロス張りのものを見かけるようになりました。

ご遺族の思いで選択されたものでも、儀式での役目が終われば焼かれたりお墓に入れられて見えなくなってしまいます。

それは品物の包装とか容器と同じようにも思えますが、中身は品物と比べることが出来ない価値あるものであったのです。この世で唯一であったいのちをが、仏法に姿を変えてくださったことを忘れないで欲しいと思うのです。

 

 

脳みそ



診察室で脳のフィルムを見せがら、「この検査は、脳の萎縮や血管の様子、脳味噌の老化などを検査しています」といわれ、「えっ、脳味噌?」と内心で笑いました。

​ドクターの口から「脳味噌」ということばが出たからです。

子どものころには脳のことを脳味噌と話していた記憶がありますが、大人になってからは脳とはいっても「味噌」はつけなくなっていました。味噌ではないと知ったからです。

それなのに専門家であるドクターの口から、「脳味噌が・・・」と真面目にいわれておかしかったのです。

脳の萎縮や脳内血管の状態を説明してもらった後だったので、理解しやすくするために脳味噌といわれたのでしょう。


自分の頭の中に味噌があるといわれたことがおかしかったのです。
 

 

改革


アメリカの大リーグから大谷翔平選手の活躍が伝えられ、よろこんでいます。

日本でもプロや野球が始まり、各球団が考えた改革の方向が芽を出しかけています。

​私が応援しているジャイアンツでは、昨年のシーズン終了時に、まだ十分活躍できるベテラン選手と契約しないで、そのポジションを若手選手に期待するという方針が出されて話題になりました。

​このときもそうでしたが、一つの改革をすすめると大きな痛みや激しい批判がかならず起こります。

その方針を出したリーダーはその重圧を一人で受けることになるのですが、方針が不動であることを示すためにはクールにふるまわなければなりません。

しかし内心では不安とか非情を詫びる気持ちなどが渦巻いていたことだろうと推察していました。

今期もそのような苦しみに耐えて、若返りとお金で引き抜きしているといわれる経営姿勢の改革が結果になって出ることになります。

まだシーズンが始まったばかりで評価はできませんが、若手選手のはつらつとしたプレーを見ながら、リーダーの心境を推察することもプロ野球観戦のも楽しみです。