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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

チャンスはどこにでも

お寺にはいろいろなお客さんがお見え下さいます。

お見えになるお客さんはそれぞれ要件があって、所要時間もまちまちです。その時間の一コマは絶好の伝道チャンスではないかと気づきました。

目的の商品を買おうとお店に来られたお客さんに、お店が買っていただきたい品物をおすすめする行為と似ています。

今までそのような意識をまったくもつことはありませんでしたし、そのような訓練をしたこともありません。

たまたま先日お見えになった銀行員の方との要件が早く終わり、お寺の悩みとか新しい試みなどのお話しをしていたら自然に仏教の話になっていました。

人生の話として響くものがあったようで、帰り際に「いいお話を聞かせていただきました」とお礼をいわれました。

あらかじめ準備をした場合でなくても、いくつかのきっかけと伝えたい教えのことばを考えておくことで、伝道チャンスはあることを気づかせていただきました。

 

まず一歩


意識的に発想を変える小さな訓練を実行しています。具体的には異質な分野で活動しておられる人と話すことや、未知の施設を訪れたり行事に参加することなどです。

施設訪問や行事への参加は自分の都合で可能になりますが、この人の話を聞きたいというときは、相手の都合もありますから少しの調整が必要です。

現在お目にかかってお話しを聞かせていただきたいお方がおられ、申し出をしているのですがまだ実現出来ていません。

それでもあれこれ考えていると、次々お目にかかりたいお方の情報が勝手に飛び込んできます。

一昨日、アイターンをしてベンチャー業を立ち上げておられる方のお話をする機会をもつことが出来ました。その日はお寺の将来を担ってくださっている人たちの集まりを計画していたのですが、その会合にお招きすることを思いついたのです。即刻お電話を差し上げ、まったく異色な発想のお話を伺うことが実現しました。

東京から私たちの地域にアイターンして、ゲストハウスやハーブづくり、石見の観光とグルメを満載したバスの運行、廃線跡を利用したサイクリング観光ロードの整備活動などのお話しや人生観を楽しくお聞かせいただきました。

自分がしたいことに向かって、人の繋がりを唯一の財産にして、今を大切にして生きるという人生観を語ってくださる様子にメンバーのみなさんが共感してくださいました。

お寺を変えることに直結することではありませんが、何かが起こるきっかけの一歩と思っています。

 

 


返信はがきを書きながら気づいたことがあります。

一枚は原稿依頼について応諾の返事を求めるもので、切手が貼ってありました。もう一枚は結社の総会に参加するか否かの返信ハガキで、切手はこちらで貼るようになっていました。

その二枚ともあて名は印刷されてあり、名前の下に「様」と印刷されていました。

お返事を書きながら、「宛」と書かないで「様」と印刷されていることにわずかではありますが思いが動きました。

お願いしたときの返信ハガキのあて先は、お願いする人は一歩控えるような感じで「様」と書かないのが礼儀習慣だと思っていたからです。

確かに「宛」を消してわざわざ「様」と書き直すことはひと手間かかることです。しかしその手間をかけることと、依頼者の気持ちを表すことの比重は十分に考えられて続いていた習慣ではないかと思うのです。

些細なことですが、合理性追求の暮らしが謙譲の美のような礼儀習慣を消し始めているようで少し悲しく思いました。

 

 

ファーストペンギンのように


ファーストペンギンのことわざを思い出しました。

ファーストペンギンというのは、天敵のアザラシがいるかもわからない海中の魚を食べるために、最初に飛び込むペンギンのことです。安全とわかれば残ったペンギンが次々に飛び込むのです。

このことわざは、リスクを恐れていたら成果は得られないという教えです。ベンチャー事業に飛び込む人に向けられたメッセージのように感じます。

人生にはベンチャー企業を考える場合でなくても、ファーストペンギンの立場になることはたびたびあります。この役を引き受けてもいいだろうか、この商品を買ってもいいのだろうか、あるいはこれを実行をしたらどうなるだろうといった場面などです。

現代社会においてリスクと考えることは、信用失墜や損害ではないかと思います。

ペンギンは他のペンギンと相談することはないようです。相談しても、相談相手が一緒にリスクを背負ってくれないことを知っているようで、自分一人で決断し飛び込むのです。

飛び込むにしても飛び込まないにしても、このことわざは信念を持って生きなさいという教えだと受け止めています。

 

 

センスを磨くには


「あの人はいいセンスしているねえ」と賞賛される人がいらっしゃいます。

テレビや写真などで見かける専門家とかタレントさんたちのことではなく、町ですれ違う人や偶然見かける人のことです。

衣服や持ちものにかぎらず、仕草や表現にもセンスを感じます。トレンドとかTPOもありますが、やはり個人がいつの間にか身につけたものに違いないと思っています。

そのセンスの中で最近特に感じていることは、住まい全体のセンスが気になっています。

暮らしの仕方から考えられた間取りや庭、炊事用具や置物、家具の置き方とか育ててある花木などから感じるセンスです。

そんなことに関心をもつようになってから、建築設計士さんの仕事や空間デザイナーさんの仕事を意識するようになりました。

美術品の鑑定士さんが、本物をたくさん見ることがコツだといわれていたことを思い出しながら、いい作品を意識して見るようにしているのです。

そうしていると不思議なことに自分の好みが次第に絞られて、無意識に似たものを選ぶようになっています。

最近では負ける建築の設計士隈研吾さん、無駄を省き本質をデザインしている無印良品などから多くのことを学んでいます。

 

 

プロの弊害

その仕事のプロとかスペシャリストといわれることの弊害について考えています。

というのはここ数日の間に、法事の礼儀作法や仏教慣習について何度も質問を受け、お答えしながら、この答えで納得されるのだろうかと考える機会があったからです。

家内からその趣旨の指摘を何度か受けていたのですが、その場のことの注意として受け止め、「専門家とかプロ意識という偏見」を指摘されていることに気づかなかったのです。

プロであるとか専門家だと自負すること、そのこと自体が間違いというわけではありません。そうではなく、自分はプロとか専門家として現実を正確に見ていると思い込んでいたら、本質が見えにくくなるということなのです。

たとえば「法事を営みたい」と相談があったとき、法事の種類等を聞いて日時の設定のことだけをお答えしています。ときには「お布施はおいくらお包みしたらいいのでしょうか」というお尋ねもありますが、「お気持ちでお包みください。布施ですから」と建前のお答えをします。

よく考えてみると、それは専門家として原則を話しただけで、質問の答えになっていないのです。

法事が仏法に会う縁であるという専門家の解釈と、義務感やつきあいと解釈される方との間には大きなズレが見えます。

まず相談された当主が義務とか世間体、あるいは習慣で設けようとされる法事かどうかに気づくことがなければなりません。もしそうであると察知したら、その場を仏法にふれる場にすることを考え始め、素人の感覚になって目的にかなう法事のお手伝いをするのがプロではないかと思い直しているのです。

 

 

ミッション


平昌オリンピックの期間中に、一冊の本を読んでいました。

散髪屋さんが、経営コンサルタントの助言を受けながら衰退する業界を元気づけるという実話を元に書かれた本でした。その本の中でミッションということばを目にしながら考えたことがあります。

ひとつの事業を始めるとき、その事業が社会とか地域に果たす役割というこのをミッションといって明らかにしなければなりません。

宗教の世界でいえば、渡来した宣教師には異国での伝道活動というミッションがあり、現在の保育士であれば預かった子供たちをしっかり保育するという役割を果たさなければなりません。

そのようなミッションは、どのような仕事にもあるわけで、それが鮮明で具体的であればあるほど行動が活発になるものです。

本の中で、店主が「散髪屋さんのミッションは、髪を切って元気になってもらうことだ」といっていました。元気になってもらうということは、なにも散髪屋さんだけしか出来ないことではありません。食堂でも大工さんの仕事でも出来るのですが、散髪屋さんの仕事で元気になってもらうことがあるというのです。

そのような物語を読みながら、伝道するというミッションが鮮明であれば、お寺の活動内容はもっと拡げることが出来ると思いました。

 

 

リトリートのあと


リトリート体験のあと、何かの変化が生まれ新しい活動が始まるのだろうかと気になります。リフレッシュして、また新たな気持ちで生活が始まるようになれば、たとえ小さくても何かの変化が生まれるのではないかと期待をしているのです。

平昌オリンピック男子フィグギュアースケートの金メダリストの羽生選手が、「努力は裏切ることがありますが、無駄にはなりません」といわれたそうです。

スケート競技を企業活動に置き換えて考えても同じようにいえると思います。

大きな飛躍に限らなくとも何かを求め、現在の活動を見直そうとするとき、一旦すべてを白紙に戻すようなところに立ってみるというリトリートの時間。

そのリトリートのために時間と経費をかける努力をしても、それが必ず成果に繋がるとは限らないということです。しかしだからといってそれは決して無駄にはならないのです。

「なぜ生きるのか」という原点を振り返り、「なぜ働くのか、なぜ家庭を持つのか」と今の自分の生活や仕事へ向かう姿勢に気づくことが出来たら、地に足が着いた毎日が始まると思うのです。体験が積み重なるようになると思うのです。

羽生選手は、この事実に気づいて「裏切られても、努力は無駄になりません」といわれたのでしょう。

 

 

自己ベスト


平昌オリンピックが間もなく閉会になります。新しい競技への関心も生まれましたし、いろんな気づきや話題をいただきました。

「自己ベスト」とか「コーチの力」、あるいは「政治とスポーツ」といった大小様々に対する気づきや話題です。

そのひとつに自己ベストということばがあります。出場した選手が、オリンピックという大舞台で今までの記録を更新する出来事です。

他の選手と比べるのではなく、過去の自分の記録と比べて自分の努力から生まれた記録なのです。そんなことを思いながら、努力のためには明確な自己の記録をもつことの大切さを考えていました。

私はお寺の仕事をしているうちに、記録らしいものを意識することが次第に減ったように思います。

会社の勤めを辞めてしばらくは、年間の参拝者をカウントするなどして数字化できるものを記録していましたが、いつの間にか止めました。

数字を使って、数字化できないことの評価は難しいと感じたのです。さらにいえば、真実に気づく仏法に数字は必要がないのです。

「なぜ生まれてきたのですか」とか「仏法を聞けば人間はどうなりますか」という説明に数字は役に立たないのです。

というわけで、私がしいて数字で自己ベストを考えるとしたら、今日一日どれだけ罪や悪を作ったのだろうかと、気づいたことだけ指を折ることくらいしか出来ません。

でもよく考えてみたら、それは自己ワーストですね。

 

 

being


観光事業が大きな変化をしています。修学旅行もそうですし、旅行会社が販売している企画の広告を見てもよくわかります。

とくに外国の旅行者の様子を見ているとその変化がよくわかります。その変化をどなたかがことばで説明しておられ、「ああそうだなあ」と納得しました。

今までの旅行目的の主流は、サイトシーイング。次にそれにドゥイングという体験が加った旅行がよろこばれるようになり、今はそれにビーイングという目的の旅行が増えてきているといわれるのです。

そのビーイングについては、過疎とお寺の将来を考えながら気づいていました。

そこに過疎という時代の流れが見える場所がある。その場所には目には見えないけれど、今ではなぜそれを造ったのかわかりにくくなった異物のようなお寺がある。

そのような環境に身を置いて、人は何を感じるのだろうと思っていたのです。「そこに我が身を置いて自己を習う」という仕掛けが出来るのではないかと考えているのです。

墓地を見ながら、いのちを考えることがあると思うのです。本堂に座りながら、なぜ生きているのだろうと考えることもあろうと思います。

そのガイド役をしてみようと思っているのです。