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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

蝉の声



一昨日の夕方 一日の行事を終えて戸締りをしていたときヒグラシの声が聞こえました。

前日の朝 「今年はセミが遅いね」と家内と話していたばかりでした。

早速それを家内にも伝え 夏が来ていることを話しました。

夏を感じることや季節のうつろいを知ることが 毎年同じようにはならないことは当然です。

そうであるのに いつの間にか同じようになると思っているのです。

セミが鳴かなくても夏は来ます。雪が降らなくても冬になる年もあろうかと思います。

人間の暮らしも同じで いつものように条件がととのわなくても しっかり何かの状態を認めることはできます。

そういう考えで暮らしている人に出会うと 思わず「いいなあ」と思います。


 

 

人生は網のようなもの



どうやら思考の癖になってしまったようですが 何かを考えるとき 必ずといっていいほど仏教の話が頭に浮かびます。

人生を俯瞰するとき お浄土は宝物をちりばめた網で覆われているという経文を思い浮かべます。

網は小さな網の目がひろがってできています。その網の目には結び目が必要なのですが お浄土の網は結び目がいろいろな宝物で出来ていると説かれているのです。

私はその一つが私なのだと読むのです。

私が動くと 周囲の網の目も少し動きます。周囲の網の目が動くと 私もそれにつれて動くことになります。

周囲の網の動きは 世間の動きと思っています。自分の動きは必ず周囲の網の目である他人をも動かします。

そこでもし網を広く動かそうとしたら 多くの網の目が共感できる動きでないと難しいのです。

またお浄土の網の目が 宝物であるということは 人間一人一人が宝物であると読めます。

そんな読み方をしていると 仏法はとても新鮮な教えであることがわかり 楽しめます。


 

 

人が変わるということ



先日のお参り先ではお昼ご飯を準備されることを聞いていましたので その予定で出かけていました。

近頃では料理屋さんから仕出しの料理を取られる傾向になりましたが その家ではすべて家で作られたご馳走でした。

その料理が 仕出し料理の定番とは違い 工夫を凝らしたプロの料理なので驚きました。

食事の途中で 「今日の料理は 全部息子が作りました」とお父さんにいわれ またまた驚きました。

思わず「息子さんといえば あの茶髪にしていた息子さん?」とお父さんに尋ねたのです。「そうです。中学生のとき茶髪にしていた息子です」というお答え。

中学校を卒業して 自分の意志で働きながら定時制高校に通い 調理師になったと話されました。

すべての料理を出し終えて座敷に顔を見せてくれた息子さんと話しました。

すでに30歳を過ぎて 子供もできてすっかりいいお父さんになっていました。かっての茶髪少年が ここまで変化することなど当時は予測できないことでした。

中学時代から喫煙までしていた息子の将来を案じていた両親にも この変化は予測できなかったと思います。

「夜間の定時制高校で勉強したい」といい出した息子の意思を尊重して 世間体を捨てて応援していた親がいたことも この変化と無関係ではなかろうと思いました。



 

 

あるモノ探し



「ないモノ探し」は きりがなく死ぬまで続く行動ではないかと思います。

一方で「あるモノ探し」というのはどうでしょうか。短時間で大方のモノは探し出せそうに考えていましたが どっこい これもなかなか困難なモノ探しになります。

お寺参りの帰り道 「ありがたかったなあ」と話しながらお帰りいただくために どうしたらいいのかと考えて「あるモノ探し」という宿題をもらったと思いました。

「ありがたいなあ」というつぶやきのためには感動をつくることが必要と考えたのです。

そしてそれを自分が今もっている材料でつくらなければと考えたとき 「さて何があるか」と探し始めることになったというわけです。

そして感動をつくる場所 感動を生み出す機会や材料を探し始めました。

宿題に手を付け始めたら 次々に「あるモノ」が見え始めました。ひごろ何気なくかかわっているすべての場所や場面に 目的のモノが次々と見つかるようになりました。

まだまだ出てきますが 自分の身心に合わせて実行できるものから始めています。


 

 

鬼ごっこ



ぼんやりと仏教の教えのことを考えていたら 「鬼ごっこ」遊びのことを考え始めていました。

じゃんけんに負けた人が鬼の役になり それ以外の人を追っかけて 体にタッチして鬼を増やすという単純でおもしろい遊びです。

この遊びは 逃げる役より 鬼になって追っかける役がおもしろかったと記憶しています。

早く鬼の役を終えるためには 鬼を増やして 大勢で追っかけることが上策です。

鬼役になった人は 自分より足が遅い人をターゲットに追っかけ 早く二人目の鬼をつくり 協力して逃げ役の人を追っかけます。

この鬼ごっこがおもしろいのは 必ず全員が捕まってリセットされ新しい展開が始まるからです。

終われば 鬼の役を終えた人も捕らえられて鬼に加わった人も それぞれがおもしろさを感じたことを思い出します。

「鬼ごっこ」遊びは 逃げようとしても逃げおおせることができないことを体験する遊びではないかと思っています。

7月15日11時から お寺で鬼ごっこを始めます。参加しませんか。


 

 

帰り道のことば



寄席を出ての帰り道に話す感想のことばは 「おもしろかった」でしょう。

スポーツ観戦の帰り道では 「いいゲームだった」とか「惜しかった」などの評価です。

講演会や研修会のときは 「いい話だった」とか「よかった」。「すばらしかった」「参考になった」あるいは「ためになった」とか 感想のことばは様々です。

ところでお寺参りのあとの感想では どんなことばが出るのか尋ねてみました。

「よかった」ということばを聞くことがありました。「ありがたかった」ということばを聞くこともありました。

「ありがたかった」ということばが聞こえるためには 感動的な話が必要ですが 誰にでも簡単に出来そうに思えません。

その結果にこだわらず そうなっていただきたいという熱意と準備によって 感動が生まれるお手伝いなら出来ると思います。



 

 

お寺参りは仲間があったほうがいい



お参り先のご婦人と話しているとき 「お寺参りは連れがあると精がいい」ということばが出ました。

一人では「今日はお参りに行こうか」という決心がつかないという意味の話しでした。

それってよくわかります。

一人でディズニーランドに行くとかレストランや回転ずしの店に入ることをためらう心理と同じように思えます。なぜかよくわかりませんが 実際にはそんな気分があるのです。

それでは本屋さんに行くときもコンビニに入るときも同じ気持ちになるかといえば そうはなりません。

入りにくい場所は一人客を対象にしていないかというと そうではないのですが 面白くない気分になるのです。

一人で座ることへの気おくれとか 勇気が出ないこともありそうです。

おそらく 仲間といっしょに過ごしたほうが楽しいと感じるところには 一人で行ってもつまらないという逆の気分が動くのでしょう。

楽しみというものは 誰かと何かを共有するということであり その感動を話し合うことにも大きな比重があると思っています。


 

 

掃除のこと



掃除の達人と呼ばれる人がおられることは テレビの紹介で知っていました。

再度そのお方が掃除に向き合われる心構えや 具体的な方法について紹介があったときに考えたことがあります。

子どものころ 広い本堂の縁側を雑巾がけすることや境内の草削りなどは 手伝いとしてやるのではなく 自分の仕事だと思っていました。

遊びたい気持があるときは 出来ることならしたくないと思うことはありましたが 掃除そのものが嫌いとは思ってはいなかったのです。

最近になって なぜか一段と掃除のことに興味が増えた感じがしています。

その原因の一つに 掃除道具類の進化があるようです。

例えばルンバという自動掃除機の上手な使い方。洗濯物や衣服から出る綿埃をふき取る便利なモップ。あるいはガラスの汚れをきれいに拭き取るクロスや汚れ落としの薬品など。

そのような道具や薬剤が次々と身近に整ったことがあります。

しかし何よりも私にとっての大きな原因は 生活のダウンサイジングを意識するようになって 「きれいな暮らし」をすることが楽しいと感じるようになったことです。

身の丈サイズの暮らしと きれいに暮らそうと思う気持ちの関係はよくわかりません。


 

 

人間とペットのお骨を一所に納めてはいけない?



朝の家事をしながら何気なくテレビから聞こえる話を聞いていました。

「ペットの骨を自分たちと同じお墓に入れてはいけない」とかいう声が聞こえ 「おや?」っと画面を見ました。

「六道輪廻」ということばがあるように 人間と畜生は死後の行き先が違うからダメという意見でした。

続いて宗派の研究所で経典を調べたら いけないと書かれているものはないという意見が紹介されました。

ペットと暮らす人が増え このような課題が生まれ増えているようです。

その日の放送で取り上げられたかどうかわかりませんが 私は宗教に関わる人が「お墓」についてどのような見解をもっているかに関心があります。

一般には「お墓は死後の家」と受け止めている人が少なくありません。一方では 粗末にできないから納めるために形を整えたものという見解もあります。

暮らしにゆとりが生まれるようになった現在 お墓は立派な石で建てられるようになりました。あるいはマンション生活者も増え お墓を建てる場所の確保も容易でなくなりました。

そのような社会になって いつの間にか「お墓は必要」なものであるという意識が固まりつつあります。

「土にかえる」ということばがありますが 骨は土にかえすのが自然に思っています。その大地は一切の生き物の骨を受け入れてくれています。

一緒に納めたい人はそうされたらいいのです。


 

 

もったいない



「もったいない」ということばは もともとは仏教のことばでした。

そのことばに潜んでいる仏教の精神に気づいて それを考えた生活をしたら きっと人生が変わるだろうと思います。

今ではもっぱら「十分に使えるものを使わない」とか「それを捨てる」ときに用いています。

傷みがなく食べられる食品が 消費期限が過ぎたからと捨てられているとき。

やる気を出せば目の前にチャンスがあるのに 手を出そうとしないとき。

様々な場面で「もったいないなあ」と ため息とともにことばに出します。

社会が豊かになって あえてそうしないでも困らないようになったからです。

「もったいない」ということばの精神を知って 捨てるか捨てないかを選ぶと 少しづつであっても人生が楽になり充実すると思います。

適量生産とか適量在庫という方向もあります。自分サイズの時間や環境で暮らすという方向もあります。あるいは周囲や社会とのつながりを大切にする考えも生まれます。

「もったいない」ということばは 自分を見直すことばです。