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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

「家族葬」とお断りしないお葬式



昨日お参りしたお葬式は「家族葬というお断りがないお葬式でした。

地域の皆さんが大勢お参りされて 一番広い会場でのお葬式になりました。

お参りの人は全員マスクをつけておられ いわゆるフィジカルディスタンスにも配慮がありました。

あとはお互いがどこまで気をつけるかという状態でした。

世界ではコロナ再流行の気配も感じられますが ニュースなどの話題は少しずつ減っています。

コロナを特別扱いしない暮らしが始まっているからでしょう。

長いコロナ禍の期間を経て 新しいライフスタイルが始まっているのです。

いろいろな体験を重ね 間合いを身につけ始めているということでしょう。


 

 

経験が謙虚さを育てる



自分の仕事ぶりを見られると 人はどのように思うのか考えています。

知人や同じ職場の人 あるいは同業者からじっくり見られる場合のことです。

例えば料理店の厨房や工場での仕事ぶりが 同業者とか同僚 あるいは上司に注目されるとしたらどうでしょうか。

そこでは「いやだなあ」という感情とか「ミスしないように」という警戒心が生まれることがあると思います。

私は若いころ お説教に招かれたお寺でお坊さんがお座りになって聞いておられると 話しにくかったという経験があります。

そのとき傲慢さが芽生える人と 「評価していただこう」という謙虚さが育つ人に分かれるように感じます。

それは人間としての未熟さなのだと私が気づいたのは そんな経験を重ねてからのことでした。 

専門家とか技術者は いつまでも未熟で未完成であるという謙虚さを失なわないようにしたいものです。


 

 

もっとも大事なことと大事に見えること



自分にとって最も大事な役目と 大事そうに見え役割があると思います。

その見分けが難しいので 大事そうに思えることに夢中になって ほんとうに大事な役目を果たせないことがあります。

別な表現をしたら 目的と手段を取り違えるということでもあります。

そのような混乱が生じるのは 目的を明確にしようとしてことばにするからだと思います。

ことばにして固定化したら 目的が「いのち」を失うからです。

「大戸屋」さんという外食チェーンが 別の業者に買収されるという出来事の放送を見ました。

大戸屋さんは 店内調理という手法で美味しい食事を出しておられたお店でした。

その方針を貫けば お客さまが買収から守ってくださるというお考えでしたが そうはなりませんでした。

目的は美味しい食事を食べ続けていただくことであり 店内調理によって出し続けることではなかったのです。

布教活動の目的も 同じことだと思いました。


 

 

ピーナツのお菓子7種



お客さまから 名産の「ピーナツお菓子」をいただきました。

その種類は7種類ありました。

落花生納豆 落花生おこし 茹で落花生 煎り落花生 落花生巻き カレー豆落花生 小粒バタピー落花生です。

落花生は好物なのでとてもうれしいのですが 私には困ったことがあります。

落花生を食べ過ぎて 痛風を発症したことがあるからです。

あの痛みは二度と味わいたくないので 頃合いを計らなければなりません。

すべての袋を開け 違う味の豆を少しずついただきたい思いがあるのですが 湿気を考えて一つずつ開けています。

すべてを食べ終わるまで 次の袋を早く開けたいという思いと 食べ過ぎない注意との葛藤を繰り返すことになります。


 

 

信頼して任せることは



「任せる」ということについて二日話題が続きました。

一つはお寺の行事の準備すべてを任せるということについて 二つ目は企業の存亡につながりかねない初動の情報についての話題でした。

「任せる」ということは 自分が楽をすることではないと思います。

自分でなければできないことに時間やエネルギーを集中することです。

責任を分担することで 自分が責任を取らないということとも違います。

責任を引き受けるという証明ができる体制をつくることです。

大きくは国家の危機管理や人命を預かる病院の体制などでは 信頼して「任せる」ことが行われていと思います。

性善説で信頼して任命し 性悪説によって体制をつくるということが行われているのでしょう。

 

 

朝のお仕事ドングリ拾い



今年はドングリが不作です。

その結果 クマが里に出てエサを探しているというニュースが伝わります。

確かに例年より少ないと思いますが それでも毎日お花の庭に落ちている実は大量です。

それを見ると落ちたドングリが春に芽を出し 一面がドングリの林になるような錯覚がおこります。

芽を出してから引き抜くことは大変なので せっせと今ドングリを拾っているわけです。

木は一本しかなく しかも不作といわれるのですが これほど大量に実をつけることに驚きます。

しかしそのおかげで多くの生き物が暮らし さらに新しい自然界が姿を現すのでしょう。

それでも私は 花を楽しむためにドングリを拾い続けるのです。


 

 

水の力



4日前から 我が家の玄関の花はツルウメモドキとウインターコスモスです。

大きなツルウメモドキの枝を伐って持ってきてくださったので 家人がそれを活けました。

ツルウメは 11月になってお寺の本堂に入れるためにお願いしていたのですが 早々にいただいたものです。

ツルの元を水につけて活けているのですが 実の多くは青い皮を被ったままです。

水から出せば数日で皮がはじけ 赤い実が出てきます。

遠来のお客さまに合わせてそうなるだろうと思っていたのですが なかなか皮がはじけません。

もってきて下さったお方から 「水につけているとはじけないよ」というお話を聞いて 水の力を思いました。


 

 

認識の差 認識のずれ



事業所で行われたミーティングのレポートを読んでいたら 「車検制度の認識に差がある」という意見がありました。

多くの運転者たちは 「車検が終ったら次の車検日までは故障なく安心して乗れる」と思っています。

ところが車検をする事業者は「法で定められた点検箇所は現在正常か」という点検であり その時点での不具合を検査し修理しただけだといわれます。

車検という制度についての認識のずれであり 建前と自己本位の本音とのずれともいえます。

レポートを読んだ後 お坊さんにも同じことがあると思いました。

法事の場で読経してお話しが終ると お坊さんは「場の継続と布教ができて責任を果たした」と思います。

一方で法事を済ませたご家庭の人たちは 「これで務めを果たした」と安心されます。

肝心の仏法が伝わったかどうかより すれ違いの義務を果たしたという感じがするのです。

車検は安心走行が約束されたという錯覚であり 法事では聞法をしているという錯覚です。


 

 

躊躇ということ



カーラジオから「躊躇している」ということばが聞こえました。

島根県のサッカーチームのコーチに就任した方が 選手たちの試合を見て「躊躇している」といわれたという話でした。

ゴール前でシュートする機会がありながら躊躇していることが多いというのです。

そのことばを聞きながら 自分のことを思っていました。躊躇している自分のことをいわれていると聞こえたのです。

躊躇していることは リスクをとらないことでもあります。失敗によって起こりそうなことを無意識で嫌っているのです。

小さなことに挑戦して自信をつけることで 躊躇を克服することになると思っていましたが それは間違いでした。

小さなことによって起こる失敗は 小さいことであり学びがないのです。成功した喜びを蓄積することができないからです。

たくさんの挑戦課題と挑戦機会を見つけ 「躊躇しなくてよかった」と感じる体験を重ねたいと思っています。


 

 

欄間を取り替えました



お医者さんのお住まいが改装されることになりました。

和室が不要になったのですが そこには素晴らしい欄間が使われていました。

それをいただいて我が家の客間の欄間と取り替えたのです。

私の理解では 欄間とは和室の襖と天井の間にしつらえた換気用の飾り窓です。

厚さ10センチくらいの欅材の板をくりぬいて どちらから見ても見事に映える絵が刻まれていました。

作家の名前が書いてあったのでインターネットで調べたら 予想した通り井波で彫られた作品でした。

日本建築の原型が完成したのは室町時代といわれています。書院や書斎をつくり 床の間や欄間などもつくられたのでしょう。

取り付け前の欄間を眺めながら 建築は機能だけでなく文化になっていることをあらためて納得しました。