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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

自動販売機が苦手



家人は自動給油機  スーパーやコンビニでのカード決済とかスマホ決済などになじみません。

機械類の扱いが苦手ということもあるでしょうが  無人化では会話とか温もりがないからと思います。

自動化は  人件費削減や不正防止  スピード化が主な目的です。

ところが何事でも 物事は表と裏がセットになっています。

自動化によって  裏側にあった会話とか買物の楽しみが半減しています。

お店側のメリット追及は  極端な表現ですが お客さんのデメリット追求に重なります。

カラカラに乾いて機能だけになった  機械の街は嫌いです。


 

 

捨てるものは



私には捨てるものが限りなくありそうです。

「捨てる」というと  真っ先に思うのは形あるものです。

でも本当に捨てるものは  形にしようと思った「思い」と「思いの習慣」ではないかと思います。

習慣や制度はもちろん  ものごとの「判断基準」などです。

そういう意味でいえば  捨てることは世間に逆らうことにも似ています。

いわゆる『世捨て人」になるか 「 ポツンと一軒家」の暮らしをすることです。

そこまでなり切れたらいいのですが  欲があるので行きつ戻りつを繰り返すでしょう。

きっと  適当に曖昧に生きることになりそうですが  その道を選択して捨てるつもりです。


 

 

花、無心にして蝶を招き・・・



タイトルは  良寛さんのことばです。

自分たちが楽しむお庭をつくろうとして  庭づくりをしています。

そうしていると「オープンガーデンをされませんか」と  お付き合いがある園芸店から声がかかりました。

興味があればどなたが来てくださってもかまいません。

見に来てほしいという思いがあって  お誘いもしていたのですが  「順番が逆ですよ」といわれたように思いました。

いつのまにか経済人間(造語です)になっていたようです。

自分たちが楽しむお庭作りに徹します。


 

 

これを捨てることは考えてもみなかった





お坊さんになってから今まで  ずーっと「あれをしよう  これをしよう」と  前ばかりを見てきました。

「捨てること」は一度も考えなかった気がします。

その習性はいまだに変わることなく  まだ「次はこうしよう」と考えるのです。

時代とともに変わる社会を見ていると  わずかに変化したくらいで仏法が伝わることは難しいと思うようになりました。

考え始めた捨てる内容は  「仏法を語ること」です。

今まで守り続けてきた仕組みを捨て  仏法を聞いている「自分の生き方」を世間に問うてみるのです。

自信があるからそうするのではなく  自分にできることはそれだけだと気づいたからです。

共感していただく仲間があれば  それは捨てることが出来たということになります。

「仕組みと  しがらみを捨てる」。

お坊さんとしてお育てをいただいて  気づいた結論です。


 

 

親子の味付けは似るものでしょうか



家人が  娘の味付けが自分と同じようだといいました。

炊いたタケノコを送ってもらい  それを食べた時の感想です。

そして「お醤油が同じなんだ」といったのです。

幼い頃から味わって染みついた味覚は  次の世代に伝わるのは自然です。

ところがレトルト食品や  スーパーのお惣菜で育った子どもたちが親になったとき  どんな味が次の世代に伝わるのでしょうか。

便利さが横行すると  つながりが薄らき断絶も生まれるように思うのです。


 

 

愚者になるために必要なものは何だろう?



ものを知らない人をバカといいます。そうするとバカに知識は要らない。

損ばかりする人や先のことを考えない人もそういわれます。それは計算が出来なくてもいいということ。

他人のために自分が犠牲になることをいとわない人もバカげているといわれます。それって他人の気持ちが分かることでは。

逆境にあっても  環境や他人のせいにせず  自分が鍛えられていると思う人もバカに見えます。

何事も無条件で受け入れる人のことのように見えますよね。

要領が悪く  物覚えが悪くテンポが遅れる人はバカと見られます。

結局のところ  社会の評価をおっかけない人  つまり知識とか数字に無関心な人という感じがしてきました。


 

 

目指すことはなんだろう



お寺をお預かりしていてずいぶん長くなりました。

あらためて 「自分は何を託されているのだろう」と立場を変え自問します。

この自問は今仁始まったことではありません。まあ  折あるごとにしているようなことです。

今回も答えはすぐ見つかりました。

「仏法を伝える」ことを託されているのです。

その方法はいろいろあります。その方法によって  どのようにお伝えするかを思考錯誤しながら今までやってきました。

託されたことはお仏法をお伝えすることなのですが  努力不足だったからに違いはありませんが  どうやらそれは叶いそうにありません。

立場を変えたように思いを変えて  伝わる生き方を目指そうと思います。

一言でいえば  愚者になり切る暮らしをすることです。


 

 

いのちはなぜ尊い?



いのちは尊い  あるいは生命の尊厳といわれます。

ではなぜ尊いのか  尊ばなければいけないのかと真っ正面から問われたらどのように答えましょうか。

「そもそもいのちとは」から話そうとしても  納得していただける説明にはなりません。

いのちが尊いのは  いのちは成長するからです。

どのような状況であっても  成長することが約束されているからです。

明快な回答に出会えたので  嬉しくなりました。


 

 

同じ釜の飯を食うこと



コロナ感染防止のために  三密回避のことが問題になります。

先日は厚労省官僚の送別会での深夜会食で  課長の更迭という出来事がありました。

同じ釜の飯を食いたかったのだろうと思います。

時期や時間  そして人数に配慮とか自覚が欠けていたのですね。

お互いが気持ちが通じ合うために  昔からいわれていた言葉が「同じ釜の飯を食う」という言葉でした。

同じ釜の飯を食べたら仲良くなれるということではないのですが  気持ちが通じるのです。

異なる背景をもって働いている人たちで  場と雰囲気が共有出来るからです。

一回の釜の飯が万能薬ではないのですが  お互いの意思を通わせる一助になるのです。


 

 

今日から新年度



学生さんや事業をしている人にとって  今日は一年の始まりです。

環境とか仕事など  昨日までのことが急に変わる人や連続する人と様々です。

昨日までのことは  どうあがいても変えることは出来ません。

またこれからのことについて変化を意欲を燃やしても  自分を変えることは簡単ではありません。

それは自分が使える時間つまりチャンスは今だけと思わないからです。

今日の24時間だけで何ができるか  と思わないでください。

未来に大変なこと出来るスタートなのです。

マラソンを始めるなら  今日シューズを履いて走ることです。

人に優しくしようと思えば  今日  目の前の人に感謝するのです。

今できることは  性格を変えることではなく  行動を変えることです。