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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

案山子



山間の集落を走っていると 刈入れを終えた田んぼに案山子が目立ちます。

田んぼの中心近くに立っている案山子には驚きませんが 道沿いに立つ案山子には驚かされます。

山すその道を曲がると 田んぼが出現する状態が連続し 突然その道端に人影を目にするのです。

スピードを落として確認すると それはほぼ全員案山子。

巧妙に造られたものが増え スズメも警戒するでしょうが 人間も驚かされます。

それでも見慣れてしまうとスズメは驚かなるのではないかと想像します。

一方で人間は とくに注意深い人でなくともブレーキに足がかかるのではないでしょうか。

この時期の案山子には 私に向かって安全運転を呼び掛ける効果があります。


 

 

点滴をお断りしました



100歳を迎えようとしているご婦人のお話しです。

施設に入所せず ご自宅で看取りをしたいというご家族の思いがあり 訪問介護を受けながら過ごされています。

医療関係者から点滴による栄養補給の提案があったようですが ご家族は自然死を望まれたようです。

その代わり ゼリー状にした食事を口から食べていただく介助を続けているといわれます。

ご家族のお話をお聞きしながら 寿命の終わりが遠くないことを感じました。

これから臨終までの月日は ご家族にとっては目を話すことができない時間になります。

そのときまで何を語りかけどのような 介護をするか。そのときのために何を準備しておくか。

家族関係の中にあったであろうさまざまな喜怒哀楽が 一瞬にして思い出に変わるわけです。

「終わりよければすべて良し」ばかりではないでしょうが 今は感謝しながらの介護に徹していただきたいと願っています。


 

 

犬も歩けば



いろはかるたに 「犬も歩けば棒に当たる」という札があります。

幾通りかの解釈がありますが 「犬は歩かなければ棒に当たらない」という読み方をして歩かなければ何事も起こらないと受け取りたいのです。

行動しなければ何も変化は始まらない。無理やりにこじつけた解釈ではないはずです。

我が家では その解釈が次第に身についてきたようで「これ面白そう」と思えば すぐ行動するようになっています。

コロナ禍で県外への遠出は控え気味ですが 可能な限り出歩きます。

そして棒に当たりながら コロナ禍を前向きに受け止めることができています。

「歩かなければ棒に当たらない」という解釈が間違っていないことを実感しています。


 

 

100歳を過ぎても夢がある



103歳になっても夢をもっておられるというご婦人の話を聞きました。

今年の年賀状を作成するために電動車に乗ってパソコン教室通いを始められたといいます。

100歳まで運転免許を持って運転もされていたとか。

ご近所の人の話を聞いていると 健康の秘訣は早寝早起き。そして若い人との交流があるからだといいます。

加齢とともに私がお目にかかる相手は ほぼ若い人になりました。ところがそれだけでは若者との交流とはいえないことに気づきました。

若者の考えや行動に積極的に触れなければ交流とはいえないということです。

若者が使っている用語を使い あるいはアニメを読むということが触れることではありません。

言動の本質をきちんと聴く努力とか 興味を感じたことを実行してみることから夢が生まれるのでしょう。


 

 

とっさのあいさつ



海辺の町にお参りに出かけると サーフィンを楽しむ人に出合います。

昨日は海から上がった2人の男性が 道端の広場に止めた車の前でウエットスーツを脱ぐところでした。

私の法衣姿を目にした2人とも 「こんにちは」と大きな声であいさつしてくれました。

私はとっさに「こんにちは ごくろうさまです」と返事。

その直後 今のあいさつはちょっとおかしいなと思っていました。

遊びに来ている人たちに「ごくろうさん」はないと思ったのです。

車を走らせながら また明日も会えるようなら そのときは「楽しみましたか」といいましょう。

地元の人に対するサーファーの心遣いに和まされます。

ときにはこちらから声掛けすることもしてみましょう。


 

 

白紙になるとは



「いったん白紙に戻して」「ゼロから再スタート」「断捨離して」・・・。

多くの人がお好きなことばです。私もそのことばを心地よく感じ 使うこともありました。

白紙とかゼロにすることは 「モノを捨てる」「事業やシステムを変える」「習慣を捨てる」「今までの生活を捨てる」ことをいいます。

そうすることで 家庭を破滅させたり周囲に迷惑をかけることもあり 事業に損害が生ずることも考えられます。

そう思うと自分の生き残りのためであっても 実行を躊躇するのです。

あえてそうしてまでも手に入れたいことは 傷つける犠牲者に納得していただけるものでないといけません。

私利私欲のために実行しようという変化は 決して成功しないと思っています。


 

 

いまどき家紋って何だろう



納骨のために近所にある墓苑に行きました。

そこに建っているお墓の多くに「家紋」が彫られています。当家の家紋は初めて目にするものでした。

「これは何という家紋ですか」とご遺族にお尋ねしたら 「登り藤に三階菱です」というお答え。

それを聞いて 「いいもの取りの組み合わせですね」といったら笑っておられました。

墓苑で話題にしたのですが 今どきの若者には「家紋」などに関心がないようで誰ものってくれませんでした。

家柄 家筋という身分を誇張するような話には興味がなかったのでしょう。

紋付の和装が消えて洋服になり 個人が尊重される時代になって 「家紋」は次第に影が薄れてきているようです。
 

 

 

非日常から伝わるもの



非日常に力があることを知りました。

家族の誕生日とかお正月やお盆という非日常行事。さらにお祭りとか法事などの非日常にある力です。

日常生活の中では想像も体験することがないのが非日常。そう定義したら旅行も非日常に加えてもいいと思います。

たとえばいつでもお寺参りしている人にとってお寺参りは日常かというと 違うと思います。

そこで体験したり聞くお話しに非日常の内容があるからです。

たとえば精進料理。現代人の味覚は お肉やお魚の味に染まっています。野菜の素味を味わうことは不可能になっています。

お寺参りで素味のおいしさを味わえるとしたら それは非日常の力。

楽しみや安定を求めて暮らす現代人が 「人生は苦だ」とか「人生は無常だよ」という真実を聞くことも非日常。

非日常の深みを体験することで 日常を見直すさまざまな力が生まれます。


 

 

物語に触れよう



枝に実った青いクルミ。はじけて今にもこぼれそうな栗。

それを見たら 加工されてお店に並んだものからは想像できない時間のことを感じます。

この感覚を思い出しながらクルミを割ります。クリご飯を頂きます。すると季節の恵みをいただいていることがよくわかります。

自分が丹精をこめた野菜の味が スーパーのそれと一味違うと感じるのと同じです。

私たち目の前に出された食品は知っていますが そこまでの姿や物語を知らないものがたくさんあります。

さらにいうと 自分のいのちを支えているものを知らないでいることがたくさんあるはずです。

今年になって身近にクルミの木を見つけ 実を収穫したことがきっかけになって 物語に触れることの大切さに気づきました。


 

 

「もうメシを食った?」



気になっていることば遣いがあります。

それは物を食べることを「食う」ということば遣いが増えていることです。

間違っているのではないのですが 餌のように感じ 食べ物に対する感謝の思いが感じられないからです。

「いただく」とまでいわなくても せめて「食べる」といって欲しいのです。

特に若い人が「食った食った」からはじまり「メシ食った」という会話をしているのを聞くと 家庭の様子や友達関係のことを思います。

私がひもじさを体験したせいばかりではないと思いますが いまだになじめないことば遣いなのです。

ペットに対しても「食っている」といっているかというと 違っているような気がしますがどうでしょうか。