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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

お宝は足元にある?



「お金はグランドに落ちている」ということばを聞いたことがありました。

それとは意味がすこしずれますが お宝は足元にあると感じるようになりました。

仕事とか家庭のことで行き詰ったとき 足元をしっかり見つめたらそこに解決の芽が見つかるという意味です。

毎日あるいは一週間 何かをして暮らしているのですが その一つ一つの内容を見直してみたらどうかということです。

電話を受ける 新聞を読むという日常の意識しない習慣の見直し。あるいは家族や仲間ととの会話の習慣などにも思いを巡らしてみることです。

きっと何かに気づくことができると思います。

あとは気づいたことを実行するだけ。

いきなり大きなダイヤモンドを見つけることはできないかもわかりませんが 足元を探す習慣を身につけることはできます。

それが人生にとって大きなお宝ではないかと思うのです。


 

 

手すりつきの便器



道の駅や病院の男性用トイレに入ると 入口に一番近いところに「手すりつき」の便器があります。

用足しに行ったとき 誰も人がおられなくてもその便器の前には行かないようにしています。

いつ手すりが必要な人が来られるかわからないので 空けておこうと思うからです。

昨日病院で用を足していると 若い人が入ってきました。

たくさん空いているのに いきなり一番近い便器の前に立って利用を始めました。

乗り物の中で 高齢者や障碍者などに席を譲るという学習と同じように トイレの利用エチケットも学習が行われているのでしょうか。

こんなことは社会学習なのでしょうがねえ。

 

 

見えぬことが恐怖



それにしても新型コロナウイルスの発生と拡大は不気味です。

我が家でも連日のように 一度か二度は話題にしています。

恐怖の根本にあるのは 「見えない」ことではないかと思っています。

見えないものはウイルスと終息時期です。

あらためて人生の中の恐怖をかんがえてみると 明日死ぬかもわからないことに恐怖を訴える人はまれです。

日常の恐怖心は 発病の結果とか死に至るという想像が可能だから起こるものではないかと思います。

一方で死ぬことについては 想像がつかないのではないでしょうか。

病気の家族が目前にあっても 臨終の枕元に座っていても その病も死も自分のことではありません。

たとえ自分が死ぬことを自覚したとしても それを恐怖と感じておられることは少ないように見えます。

いまだかって臨終の枕元に呼ばれ 「これからどうなるのですか」と問われたことはありません。

あれこれ考えていると 恐怖は自分で理解することが可能な範囲の状況から発生するものに思えてきました。

地獄は理解を超えた状況なので 恐怖心が生まれないのでしょう。

 

 

目玉おやじ



今朝の山陰中央新報社のコラム 「教えの庭から」のタイトルは「目玉おやじ」です。

『ゲゲゲの鬼太郎』の漫画に 鬼太郎のお父さんの目玉おやじがでてきます。

何をする妖怪なのか 忘れましたが 大きな目玉にロープのように細い手足がついたスタイルであったと記憶しています。

目の機能だけの妖怪と理解しています。

この妖怪が自分の身体の中に もう一人の自分として自分のことを見ているというお話を書きました。

誰も見ていないようでも 目玉おやじはいつでもどこでも自分のことを見ているのです。

私が子どもだったころには 目玉おやじはいませんでしたので 「お月さまが見ておられる」とか「ののさまは見ておられる」と聞かされました。

夜道を歩くと お月さまがいっしょに歩いておられるように見え 「ほんとうだ」と思ったものです。

今では 自分のウソや行動は すべて自分に見られていると思っています。


 

 

感染拡大



ついに日本国内で新型コロナウイルスに感染されたお方がお亡くなりになったというニュースがありました。

国内の感染者があちこちの県からも出ているようで 感染が拡大している気配です。

ウイルス感染者が拡大しているという事実は 人はそれだけ多くの人とのつながっている事実です。

感染の拡大を喜んでいるわけではありませんが 気づかないけれども 接触という「縁」をもっていると考えてみたのです。

新型コロナウイルスのようにインパクトがあれば 接触する他者にはかならず影響があって 「縁」というつながりがよくわかります。


インパクトの強弱に関わらず 一切は「縁」で動いていることを教えてくれています。

 

 

ETC



ETCカードを入れた車が 専用出口を進むと自然にバーが上がって通り抜けできます。

その専用出口を何度も通過しながら いまだにノーブレーキで通過するタイミングがつかめません。

「スピードを20キロ以下に落としてください」という表示がある出口もあり 20キロに落とそうとするのですが 直前までのスピードが20キロになったかどうかわからないのです。

出口近くになって目の前のバーが閉まったままであれば 落としたつもりでもそのままのスピードでは走れません。

「大丈夫だ 行ける」と思いながらも ついブレーキを踏みます。

すると2~3メートル手前で 「だお丈夫ですよ」といいたげに ゲートはバーを上げてくれるのです。

なんども自分に向かって「大丈夫 行ける」といい聞かせているのですが ノーブレーキで通過したことはまれです。

ぶつかるという恐怖心が 開閉バーやスピードメーターを信用することを拒否するようです。

でもこれが安全意識の表れと思い いったんブレーキを踏んでの通過を続けます。

 

 

泣く



歯医者さんに行きました。

隣のブースでは子どもさんが治療を受けているらしく 大きな声で泣いていました。

なだめる医師の声やはげます母親らしい女性の声でにぎやかでした。

しばらく院内いっぱいに泣き声が響いていましたが 私の治療が始まったころには聞こえなくなっていました。

治療が終わり 待合室に出たら その子らしい男の子と母親らしい二人が遊び場で遊んでいました。

「痛かったの?」と声を掛けましたが黙っていました。「何歳?」とたずねたら 3本の指を出しました。

「大きな声だっね」といったら 「痛くはないのですが 怖かったみたいです」と母親が答えてくれました。

白衣の人がおられ マスクをした人たちに囲まれて椅子に腰かけすることは恐怖だったのでしょう。


 

 

予定変更



今日は 本願寺銀座サロンでの講義を聞こうと予定をしていました。

昨夜 門徒さんがお亡くなりになったという電話をいただき中止になりました。

お葬式を営む役目がありますので 躊躇することなく予定を変更しました。

しかし「それが当然」と受け止めて終わりにしたくないと思っています。

経費をかけて準備していた予定を変更する機会をいただいたわけで その機会を大切に受け止めなければならないと思うのです。

現実は「諸行無常」とか「一寸先は闇」ということば通りですが だからその節目である「その場そのとき」を無駄にしてはいけないと思います。

予定が変わらざるを得なくなったことを 嘆くのでなく喜ぶのでもなく ていねいに向き合えという忠告とともにいただいたものと受け止めましょう。


 

 

歯の大切さ



「当たり前」といえば当たり前のことですが 人間の身体は実に精巧にできているようです。

新しい入れ歯が完成し 昨日から使っています。

歯科医院で何度も調整し 「これで使ってみてください」といわれ 自分も納得して帰りました。

ところが 話そうとしたとき 舌の広がりにくさを感じました。ご飯を噛もうとしたら 片方の奥に少し痛みも感じます。

まだ「なじまんでいない」からだろうと思い しばらく耐えてみることを選択しました。

「なじむ」ということは 異物を受け入れた身体が時間をかけて変化してくれることと思ってるからです。

どのような身体になったとしても 身体自身はつねに完成をめざしているように感じます。


 

 

新聞連載小説



新聞の連載小説は 作者が毎日書いておられると思っていたんですが そうでない場合もあることを知りました。

今回の日経新聞の連載『ミチクサ先生』は大変面白い小説で 翌日が待ち遠しく思えていました。

先日 筆者の伊集院静さんが急病になられたニュースと 活動を中止されるというご家族の話が紹介されていました。

私は 翌日かまたは数日したら 連載中止と新しい連載の発表があると思っていたのですがありませんでした。

今も連載は続き すでに10日を超えましたが 小説は次第に佳境に入って終わる雰囲気ではありません。

そして今思い始めたことは 「この小説はすでに完結している。中断を心配しなくてもいい」ということです。

夏目漱石と正岡子規を中心に 近代文学がおこる様子がいきいきと書かれていて 途中で終わってもらいたくないのです。

作者の病気回復を願いながら あらためてすでに完結している小説であってほしいと願っています。