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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

お寺参り

「お寺参り」とか「お聴聞(ちょうもん)」ということばは、現代の若い人たちに伝わることばなのだろうかとふと考えました。

昨日の法座のとき70歳前後のお方が、「私たちの年代以降の人のお参りは期待できなくなったように思います」といわれたのです。

そういわれてみると法座の案内状の文面には、若い人たちには一見しただけでは理解出来ない文字が並んでいます。

文化の伝承が出来ていない世代間のギャップを埋めるにはどうしたらいいのか。気づいたことからひとつずつあらためていくことしかありません。

そして今お寺参りをしてくださっているお方が、いそいそと、しかもうれしそうにお寺にお参りされる姿になってくださることも大切です。

一回一回の法座をていねいに開催することはもちろんですが、つねに何か新鮮なこころみも必要です。

今年も「法座体操」は続けます。
そして『ひめくり歎異抄』の解説と販売を始めます。

そして何よりも私自身が「次の法座が待ち遠しい」と思えるように、「みなさんの反応はどうだろう」と、どきどきするような法座にすることが大切だとあらためて思っています。

 

 

羽生さんも井山さんもAIをお使いでした


羽生さんと井山さんに国民栄誉賞の授与が決まったというニュースがありました。おおぜいの人の励みになるうれしいニュースでした。

お二人の特集番組を見ていたら、お二人ともAI、つまり人工知能の将棋や囲碁で研究されることもあるらしく、驚くとともにさすがだなあ思いました。

AIと勝ち負けを競うようなことをしておられるのではなく、AIを使って発想を学んでおられたようでした。

とかく人間とAIの勝負ばかりが話題になりますが、お二人は自分の限界を破るための道具としてAIを利用しておられたらしいのです。

習慣を変えることはとても困難なことです。同じように思考の習慣を変えることも困難なことに思えます。

AIにはその役目を果たす力があるようですから、それに気づいて利用しておられたのです。人間が主役で、AIを使うという姿勢を貫いておられることを感じました。

 

 

雪が降りました


10日から雪が降り始めています。「西日本は大雪」という予報が出ても、石見地方は積雪の量はさほど多くないのが特徴です。日本海の暖流によって、上空の温度が上がっているのかも知れません。

雪に悩まされている人々には申し訳ないのですが、「寒い寒い」といいながら毛糸のマフラーを首に巻き、さらにダウンのコートにくるまって歩くという変化を楽しんでいます。

数日後に浄土真宗本願寺派の寺院では、一斉に法座が始まります。

すでに本願寺では9日から始まっている「御正忌」(ごしょうき)という法座です。浄土真宗の教義を確立された親鸞聖人のご命日法座です。

この御正忌法座期間中に、数年前本願寺にお参りしたことがあります。今どき珍しいことですが、本堂には冷暖房設備はありません。

天井が高く広い空間では冷房の必要は感じませんが、京都盆地の冬は半端な寒さではないので暖房は欲しい気がします。底冷えする広い本願寺の本堂に座っていると、寒さを通り越して身が引き締まりました。

地方のお寺の法座では、その本願寺のように暖房なしで開座することは出来ません。出来るだけ多くの人に、お参りしてゆっくりお話しを聞いていただこうと思うからです。お話しを聞いて、仏法にふれていただきたいと思うからです。

修行の道場から聞法の道場へ、厳粛な空間から交流の空間へとお寺が変わっています。

仏法にふれるという目的のために、「いま」「ここ」をしっかり考えたいと思います。


 

 

自動掃除機


世の中が人口頭脳だとか、ロボットの活用とかでにぎやかになっています。

ところが高齢になると、この科学の進歩による生活習慣の変化についていけなくなることもあります。

自分の手で行うという安心感や、人間の手で行う仕事に込められている何かの感情が捨てられないこともあります。

開発に携わる人たちも、高齢化社会を考えておられるでしょうから、高齢者を置き去りにするような商品ばかりになることはないと思い安心もしています。

昨年の暮れ、娘の家で、「ルンバ」という自動掃除機を体験することが出来ました。家事に専念しにくい人にとっては便利だろうなあと思うお掃除ロボットでした。

作業の評価をしてみようと、少しの間ロボットについて歩きました。あちらこちらの障害物に当たるたびに自分が判断した方向に向きを変えて淡々と掃除をしていました。

障害物を苦にしないことはわかりましたが、掃除をし残した箇所を確実に理解しているとは思えず、頭脳のレベルはまだ人間には及びません。

というものでしたが、クレジットカードのポイントがちょうど「ルンバ」が購入できるポイントに達したようなので、我が家も人口頭脳を家族に迎えてみることにしました。

一月以内に届くようですが、はたして満足できるかどうか。

 

 

ネーミング


名前をつけなければならものが二つあって、そのネーミングを考えていています。

一つは「お寺の百均」というの催しの名前をおもしろい名前に変更することです。

そしてもう一つは、法座のときにふるまう簡単な食事についての名前です。

いずれもおもしろい名前を付けて印象付け、親しんでいただきたいという狙いがあってのことです。

百均は混雑しない法座のときに開くお店で、珍しいお菓子や食べ物を百円均一で販売しています。今年2年目になりましたので、変化しながら定着させようと思っているのです。

法座ランチは、新しい試みです。といってもこのサービスはかって行われていたもので、リニューアルというのが正確な表現です。遠近各地から徒歩でお寺にお参りくださるお方のために、お寺で食事を用意してもてなしをしていたのです。

かっては、というかってがいつごろか正確にはわかりませんが、戦前には確かにありました。子どものころの記憶に、いくつかのふるまいの光景が残っています。

そのおもてなしを現代風に変えながら再開するためのネーミングを考えているのです。

お店の名前とか料理の名前ということでなく、「おいしいランチをいただいておもしろく仏縁にあう」というシステムの名前です。

考えることは楽しいこと、しばらく楽しみます。


 

 

いろいろな時間

久しぶりに鷲田清一さんが書かれたコラムを読みました。

鷲田先生は臨床哲学者といわれるお方で、私たちの身の回りで生じるテーマを哲学される先生です。かって何冊か先生の本を読んだのですが、内容は憶えていません。

先日のコラムで、ひとつの時間で生きることは楽しくないというお話しをされていました。

管理された組織の中で過ごし、そのあと同僚などと一杯呑む時間。その時間とは別に、帰宅後に家族と顔を見ながら話し合う時間、休日には自分の趣味に時間を使うという暮らし。

どちらにも全身で取り組むという時間をもつことが大切だといわれていました。

寝食を忘れてひとつのことに取り組むという瞬間も必要なことです。そればかりを続けることは出来ないことなので、どちらも自分の時間だといえるような課題を用意しておくことをすすめられていたのです。

私はいくつかの時間を重ねながら暮らしています。

縦に流れる時間としては社会福祉の仕事時間、お寺の仕事時間、そして横に流れるような時間としてマーケティングという仕事時間、伝え方研究の仕事時間です。

あれこれ手を出してどれもが中途半端な仕事にならないようには注意していますが、俯瞰してみるとひとつの時間になって見えます。

鷲田先生がおっしゃるのは、あれこれに費やす時間を繋ぐことでいい仕事が生まれ、楽しく生きられると読ませていただきました。


 

 

ビジョンの中心


『ライク・ア・ヴァージン』という本を読んでします。

作者はブランソン・リチャードという人で、「経営学など勉強しなかったから成功した」という趣旨の見出しを読んで衝動買いをした本です。

その中に、自分の「ビジョンの中心」が明確であることがたいせつだと書かれていました。

アップルのステイーブ・ジョブズのビジョンの中心は製品、ヴァージン社のビジョンの中心はサービスと書いてあったのです。

読みながら、これは私のクセですが、お寺のビジョンはなんだろうとボールペンをもってメモ書きをしてみました。

知識を伝えることではないし、宗教文化を守ることでもないだろう、それではいったい何だろうと数日間考えていました。

そして「これだ」と断言するまで固まってはいませんが、ビジョンの中心は「物語」ではないかとひらめいたのです。

神話とか経典は物語です。あるいは仏教説話もそのひとつです。その物語りから信仰心が芽生え、芸術や文化も生まれています。

仏法の物語を語りながら、人間が無意識に求めているものに響く物語を完成していくことを「ビジョンの中心」にしようと思いついたのです。


 

 

文章化出来ないもの


伝えたいことがあっても、それを文章や図によって伝えられるものと伝えられないものがあります。

例えばお花の生け方については、文章や図によって伝えにくいように思えますがビデオなどの器機を使うことによって伝えることが出来ます。

あるいは自転車の乗り方のようなことは、指導する人がいっしょにいて練習することによって伝授することが出来ます。

ところが仏神を信じるというような内面のことは、指導者による訓練やビデオ解説などによって伝えることはとても困難です。

このような精神内のことを伝える方法として、ほぼ唯一のように行われていることが宗教文化の行事です。雰囲気や伝統行事などによって、受け取る人の自覚を促すことで伝えてきたのだと思います。

仏教には、人がお亡くなりになった後、七日ごとにお参りするという行事があります。最近になってやっと、このお参りの目的がわかったように思いました。

私は浄土真宗という宗旨ですが、お参りのとき『仏説阿弥陀経』という経典をていねいに読むことにしています。

経典の中には、私たちが見ることが出来ないお浄土の様子が詳しく解説されています。その様子をお話しすることによって、死後の有無とか、お亡くなりになった人への執着を離れることが出来ると気づいたからです。

「仏さまはいらっしゃる」、「お浄土がある」。

一度お話しを聞いて腑に落ちることはないでしょうが、そのお話しを聞いたという体験は残ります。伝える場所、伝えるとき、そして伝える物語を大切にしようと思います。


 

 

信用


アイホンでグーグルのカーナビとつなぎ、「空港まで45分くらいで行けそうだから、7時に出発しよう」と娘がいいました。

それを聞きながら、「ほんとにカーナビの情報は信用していいのか?」と思っていました。道案内にしても混雑状況にしても、機械が教えてくれるものを100%信用することに少なからず不安があるのです。

そうかといって自分自身で情報を集めることは出来ないので、一応は受け入れて従うのですがやはり不安感が残るのです。

そういう自分が機械の塊である飛行機に乗ったり車を運転するのですがそのときは不思議なことに不安感がないのです。同じように、宇宙飛行士のみなさんがロケットに乗り込まれるときもきっとそのような心境だと思います。

落ちたら必ず死ぬ状況とわかっていても機械を信用しきっているわけです。

自分の理解を超えたこととか手に負えないことに対しては、心配することが出来ないので信用しているのかも知れません。

そのように考えたら、私たちが信用していることは、「わからないからまかせている」ということなのでしょう。


 

 

読み解く



読み解くということばがあります。「ああ、深い表現だなあ」と思いました。

経典を読んでいますと、私たちが日常で使っていることばに突然出会うことがあります。例えば救済とか歓喜とかいうことばですが、このことばを現在の感覚で理解したら、そのことばの本意を誤ることになると気づいたのです。

そこにそのことばが使われた社会背景や、お使いになった人物について考えながら読む。それが「読み解く」という意味でした。

「融資して救済しよう」と使用している救済ということばの意味が、「如来に救われる」という救いとまったく同じ意味ではないのです。

困ったときとか絶望の状態が解決される事実が、如来の救いと同じことではないのです。

如来の救いということばは、一時的で表面的な状況の救いではなく、死を抱えて生きる覚悟が決まるといういのちの救いなのです。

経済的な行き詰まりによる苦悩とか病気などによる苦悩を抱えながら、その状況の中で生きることが出来るということです。

読み解くことの大切さを感じながら経典と向かい合っています。