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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

愚者であることの難しさ


余分に印刷して残っていた一昨年の年賀状を、新しいハガキと交換してもらいました。

印刷されたことばを読みながら、自分で書いたことばながら「ウン、いいことばだ」と自画自賛して眺めました。「賢者になることも難しいが、愚者であることはもっと難しい」ということばです。

​「愚者」の意味は、直訳するとバカ者。そう自覚することが大変難しいのです。

​法然さまや親鸞さまがお話しされた愚者、最近ではスティーブ・ジョブズさんが話された「ステイ・フーリッシュ」のフーリッシュは、自分の無力や無智の自覚であり、偏見や思い込みを手放すことです。

いろいろな場面で愚者であろうと思うのですが、じつに難しい。一度や二度くらいなら、「愚者になれた」「愚者でいることが出来た」と自覚できることはあります。しかし愚者であり続けることはとても不可能に思います。

歳を重ね経験を積んでも、自分は確かであるとうぬぼれたり 認めて欲しいという思いは消えません。自分は迷惑を掛けないで生きているとか 素直に生きていると 死ぬまで思い続けるのでしょう。

​なるべく早くから、自分が無力とか微力であったことを自覚し、多くの人に助けられていたことに感謝できるようになりたいものです。


 

 

大蔵経



お寺の境内に「経蔵」と呼ばれる蔵があります。近年この蔵に出入りすることは滅多にないので、『大蔵経』と名付けられたおびただしい数の経典があることをすっかり忘れていました。

以前は年に一度、「大蔵経の虫干し」といって 中に収めてある全経典を、お参りのみなさんと一緒に手渡しで本堂に移して虫干しをしていました。

その手渡し作業を行うために約50メートルの列を作らなければならないのですが、お参りされる人が減って隊列が組めなくなり中止したのです。

先日お寺に保管してある法物とか文化財のような資料を調べに来られたお方から、「何か珍しいものがないでしょうか」とたずねられて『大蔵経典』があることを思い出しました。

久しぶりに鍵を開けて蔵に入り、あらためて箱詰めされた経典を確かめました。印刷された経典ですが、1677年に編纂されたものらしく、大変貴重なものであることを知りました。

またこの経典一式を、いつごろお寺にお迎えしたのか記録は残されていませんが、一旦お寺から出て戻ってきたという伝承を証明する文字を見つけることも出来ました。

漢字がビッシリと並ぶ折り本や巻物、あるいは和綴じの経典を見ながら、文化財として大切に保管する以外には用途を思いつきませんでした。

そうではありましたが大蔵経を編纂された志と、お寺に迎えようとされた昔の人々の熱い思いを感じることは出来ました。

中に書いてある教えは、現代社会に届くことばになってこそ蘇ることを信じてお寺の仕事を続けます。

 

 

納骨



80歳過ぎのご婦人のご主人がお亡くなりになり、お骨をお墓に収めました。

お亡くなりになった後、しばらくお骨を家に置きたいという思いから 約4ヶ月後の納骨でした。

子どもさんは他県で暮らしておられ 独居生活をされていたのですが、ご主人のお骨があることで淋しさを紛わそうとされていたのです。

自宅からお骨を持ち出すとき、「いよいよひとりぼっちになってしまいます」とつぶやかれたのですが、ことばを返すことが出来ませんでした。

ご主人の実家がある他郷に来た人なので、身近に親戚や子供たちがいない淋しさや孤独感がますますつのるだろうと推察しました。

唯一人の身内であったご主人に先立たれ、その空白をお骨で埋めておられたようなのですが、そのお骨が別な町のお墓に移ってしまったのです。

淋しさは一時的に忘れることは出来ますが、突然蘇ることもあります。悲しみが蘇るときは、亡くなった人へのさまざまな愛憎の出来事や生き残っている意味を考えるときでもあるのではないでしょうか。

先立った人が、「何を願っていたか」に思いを巡らすときでもあると思うのです。

そしていつもどこかで見てくれている、必ず会えるように導いてくれていると気づくときではないかとも思うのです。


 

 

あめ玉を贈りました


昨日は15人の人に、「私の誕生日」のプレゼントを差し上げました。

といってもあめ玉一個ずつですがうれしそうに受け取って、「おめでとうございます」といってくださいました。

誕生日のプレゼントをくださいと催促をすることになるのではとか、「おめでとう」のことばを強要することになるのではないかと少し危惧しましたが、まったく違和感は感じませんでした。

一瞬でしたがその場が和み、その後あたたかい雰囲気になったように思いました。

お参り先2軒で7個、お寺に見えたお方に8個。合計15人の人に贈ることが出来ました。

「なぜお祝いされる側の人がプレゼントするのですか」とたずねられた方は一人もいらっしゃいませんでした。

私が今まで知らなかっただけで、現在ではこのような行為が当たり前になっているのでしょうか。

それともその意味が十分わからなくて、「ありがとうございます」といって受け取ってくださったのか、よくわかりませんでした。

少し変わったことをしていると受け取られたのでしょうかねえ。

 

結婚50年


結婚してから50年経ちました。

とにかくここまで家内と一緒に元気で過ごせたことを、素直にありがたくうれしく思います。

50年たった今思うことは、ずいぶん心配や苦労をさせたなあということです。自己中心の考え方や思い上がった言動などで、ことあるごとに腹立たしく悲しい思いをさせていたことを済まなく思います。

私にとってはわずかこれだけのことばを口にするまでに、50年という時間は必要だったようです。

でも楽しかったなあ とも思います。

身にしみついた生き方に気づくことは容易ではありませんが、自分に気づかせてもらう楽しさもありました。

これからも注意を受けながら、少し素直に小さなことをあらためて習慣化しようと思っています。

結婚記念日は私の誕生日でもあります。今年から誕生日は贈りものの日にしようと、今日一日、出会う人に「あめ玉」をひとつ贈ります。

誕生日の宣伝にはなりますが、「あなたのおかげで」という布施行のつもりです。


 

 

響くことば


先日所用で来客された電気屋さんとは、「今日のことば」で会話する時間をもつことができませんでした。

送りに出た玄関先で、立ち話のようにひと言ふた言ことばを交わしただけになってしまいました。それでもひと言が伝わったようで、電気屋さんはうれしそうにお帰りになりました。

何を伝えたかというと、「素直」ということでした。商品の説明をされるセールストークがとても良心的に感じられたからです。

自分のお店の取扱ブランドのことや価格のことを話して、量販店とのハンディーをどのようなことでカバーしようとしているのかということをきちんと話してくれました。

そのことに対して、「素直であることが一番大事ですね。とても難しいことですが」といいました。

電気屋さんは、ご自身もそれを心掛けておられたようで、自分の気持ちが伝わったことをよろこばれたのだと感じました。

 

 

樹木のガン



山桜の古木がガンに冒されました。

お寺の墓地にある山桜の大樹に、大きな「宿り木」が出来たのです。10年くらい前に見つけたときは一個でしたが、あっという間に13個になっていました。

このような状態になると桜の木が枯れてしまうことを聞いていましたので枝を伐ることにしました。

伐り落とされた枝を見て驚きました。枝先のあちらこちらに小さな宿り木の芽が出ており、まだ芽は出ていないまでも、小さな胞子のようなものも点々とくっついていたのです。

一目見て、これは「樹木のガンだ」と思いました。桜の木の養分を吸って成長し、花を咲かせて粘膜がついた種を撒き次々に仲間をつくっているのです。がん細胞が全身に拡散していく状態に思えたのです。

そして自分が宿っていた樹木が枯れたら自分も死んでいくという姿も、ガンの病巣にそっくりだと思ったのです。

このたび伐採という緊急の外科治療をしたのですが、桜の木はずいぶん弱っている様子でした。

切り落とした枝には早くも桜の花芽が見えました。かわいそうなことをしました。

 

 

布施がなくなりました


「布施がなくなりました」といえば「?」と思われますが、正確には「布施という行為が変質しました」ということです。

布施とか喜捨という行為は同じことで、悟りを開くための修行の一つといわれているものです。内容は自分のとらわれを手放すという行為で、シェアーするという行為の一種と理解したらわかりやすいと思います。

悟りの妨げになる我欲を捨てる行為なのですが、現代ではその意味を把握することも出来ない行為になってしまいました。

その現実は私自身のことでもあり、他人のことではありません。

その自覚に立ったうえで、あらためて「布施」とか「喜捨」を考えると、「布施」はお礼とか経費に変わり、「喜捨」は献金とか寄付金という意味に変わっています。

生活の中から、悟りを開くために必要で実行しやすい手立てのひとつが消えてしまいました。あれこれ考えてみるのですが、それに代わる行為はまだ見当たりません。

大河の流れを変えることはできませんが、流されている自分の行方に気づいていただく以外にはなさそうで、その営みに取り組もうと思います。

 

 

実行して気づくこと


「今日のことば」の張り紙をつくりました。

今日お見えになる予定のお客さまにお伝えする仏法のことばを書いて、目立つところに張り出すのです。

お客さまに「どういう意味ですか」と関心をもっていただくためと、私がきっかけづくりを忘れないようにするためです。

反応を見ながら、どのようなことばがいいのか、きっかけづくりはどのようにしたらいいのか模索しようと思います。まず実行して、その次を考えます。

じつは昨日それを思いついて、約束していたお客さんとの話の中で話そうと思っていたのですが、張り紙つくりが間に合いませんでした。

会話の中で、「真実は生活の中だ見つかる」というお話をしようと思っていたのですが、会話に熱中しているうちにすっかり忘れてしまいました。

あらためて張り紙のような目印が必要だと気づきました。

今日の午後約束している電気屋さんには別のお話しを考えます。

 

 

チャンスはどこにでも

お寺にはいろいろなお客さんがお見え下さいます。

お見えになるお客さんはそれぞれ要件があって、所要時間もまちまちです。その時間の一コマは絶好の伝道チャンスではないかと気づきました。

目的の商品を買おうとお店に来られたお客さんに、お店が買っていただきたい品物をおすすめする行為と似ています。

今までそのような意識をまったくもつことはありませんでしたし、そのような訓練をしたこともありません。

たまたま先日お見えになった銀行員の方との要件が早く終わり、お寺の悩みとか新しい試みなどのお話しをしていたら自然に仏教の話になっていました。

人生の話として響くものがあったようで、帰り際に「いいお話を聞かせていただきました」とお礼をいわれました。

あらかじめ準備をした場合でなくても、いくつかのきっかけと伝えたい教えのことばを考えておくことで、伝道チャンスはあることを気づかせていただきました。