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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

人の器とは何だろう



人を評価する場面で 器という容積を計る道具を持ち出すことがあります。

あの人は「器が大きい」とか ときには「器量がある」「太っ腹」とかいう入れ物を表現することばです。

はいっているものは どうやらその人が身につけている志のようなもので 表面上はわかりにくいものです。

それを志といってもいいし 思想といってもいいと思いますが カタチになって見えたとき器の大小が語られるのです。

志の大きい人は 志を実現するために 人のことを考えています。

どんな志を抱いても 人の理解や協力がなければ実現出来ません。どれほど深く人のことを思えるか それが器量といわれるものです。

その器は生まれつき備わったものか あるいは本人の努力で身につくものなのか気になりますが 後天的なものです。

そしてそれは 努力したら身につくものではなく 器量の大きな人との出会いによって初めて身につくものだと思います。

周囲におられる人々の中に 「あの人はなんて魅力的なんだ」 と感じる人がおられたら その人を追っかけてみたらいいと思います。

人間の魅力は 私利私欲にとらわれない誠実さの上に姿を見せているものです。

その人を好きになって 真似をして影響を受けることが一番の早道だと思います。


 

 

生まれた赤ちゃんの手はグー?



生まれてきた赤ちゃんはジャンケンのグーを出し 死ぬときはパーを出しているという話を読みました。

「確かにそうだ」と思いながら 生まれて間もない赤ちゃんを見かけることがなくなって あらためて確認は出来ません。

我が家の子どもや孫の誕生のときはそうであったと思うのですが 記憶は薄れています。

そのお話の中には なぜグーなのかは書いてありませんでしたが 死ぬときはすべてを手放してパーになるのだと書いてあり これは納得しました。

あとで 人間に生まれた赤ちゃんは 「人間のいのちを握りしめてこの世に出て来た」と解釈しました。

握りしめる力は相当強いものだとも書いてあったのですが その力は成長とともに弱くなっていると考えて見たのですが そのような説明はありませんでした。

たぶん握りたいものが増えて 握りしめる力が分散してしまうことが原因だと解釈します。

お話しの趣旨は 必ずパーでいのちを終えるのだから 「積極的に断捨離をしましょう」ということでした。そしてさらに そのための訓練が「布施」ということで それは「喜捨」ともいうのだと 都合よく結ばれていました。

布施とか喜捨という精神は気高いものですが 現在の布施には「執着心を放す訓練をさせていただく感謝」なんて思いはなくなっています。

多くのものが制度や相場で決まっていて いやいやながら手放す生活になりました。

そのうち 掌をグーにしたまま棺に納まる人を見ることがあるかも知れませんね。


 

 

わからないがわかる



「わからないが わかる」という変なわかり方があります。

あってもいいと思うのです。

たとえば真剣に積み木を積み上げては崩すことを繰り返している子どもを見て 大人が「いったい何やってるの?」と不思議に思うことがあります。

せっかく高く積み上げたのだから もう一つ同じものをつくるとかしてもいいのではないかと思っても そうしない子どもの気持ちはわかりません。

その子にとってしたかったことは 積み上げることではなく 崩すことや それを驚く大人の顔や様子を見たかったということだってあるのです。

そのようなときの「わかる」が 「わからないが わかる」ということだと思うのです。

子どもと大人が考えることは違います。その違いがわからない大人は沢山います。子どもと大人の間に限らず 大人同士でもわからないことが無数にあります。

それでもわからないことに焦点を当て 集中して見ていると あんがいわかることがたくさんあると思います。



 

 

人間が好き



原因はよくわかりませんが 近ごろ「人間好き」になっているように感じます。

男女の恋愛のような感情とは違います。子どもから高齢者まで 男女を問わず人間のことが好きになっているのです。

もっと分析的にいうと 「共感することが増えた」とか「寄り添うことをいとわない」といった方が近いと思います。

いやいや 「共感量」にしても「寄り添い度」という表現も適切ではありません。そうではなくて「その人ご自身の人間性」に出会うことが好きになったのです。

その人の欠点を探しているときや 変わってもらおうとしているときは 好きになれないことがありました。

「そうでしたか 気づきませんでした」「よくわかりました 思いが届きませんでした」といって 自分のこととしてうなずけるようになって来ている気がするのです。

人が好きになるということは 自分が変わることと同じで 自分の至らなさに気づくことであり それが楽しみにもなってきています。




 

 

パン屋さんではなぜか興奮する



あちこちにパン屋さんが出来ている話を聞きます。

そのうちの一軒に行ってみましたが そのお店はあまり広くありませんでした。

しゃれた帽子をかぶったお姉さんたちが 奥から出てくるパンを 手際よく店内に並べている光景はいかにも焼きたてです。

並んでいるパンは つややかに光っていて サイズもほどほどの菓子パンが前列に並んでいます。

何よりも匂いがいいのです。甘く香ばしい匂いに満ちている店内を歩いていると ひとつふたつは多めに買ってしまいます。

おやつにするつもりなのか それとも朝ご飯とかお昼ご飯にするつもりなのかよくわからない種類のパンを つい選んでしまうのです。

なぜ余分な量を買うことになるのか 考えて気づいたことは しずかに「興奮」するのだと思いました。

匂いやツヤなどの五感によって誘惑され お八つにもなるという手軽さも計算を狂わせてしまうのです。

というわけで 「森のクマさん」という石窯焼きのパン屋さんで 4種類のパンを買いました。


 

 

失敗は一歩の前進



法座でおもてなしする「お寺ご飯」を研究しています。

精進にこだわらず 基本は地域の人たちと一緒によろこべる食事です。

条件は ①一汁一菜 ②準備が手軽 ③過疎や高齢化によってつくる機会が減っている惣菜 ④地元の食材 ⑤不足がちの栄養価補給の一助になること。

とまあこんなことを頭において研究をしています。

作り手も女性に限らず 男性ならではのご飯だってOKと 柔軟に考えています。

3月の法座に食べていただけたらと思い 「寝かせ玄米」を思いついて試作しました。

レシピを見ながら炊いたのですが 途中でコゲ臭い匂いがしたのであわてて火を止めました。炊きあがっていましたが 釜にしっかりコゲつきました。

その日初めて使う圧力釜でしたので 馴染んでいなかったのではないかと思いますが コゲ落としは大変です。

炊きたてをいただきながら 美味しいご飯ですが おもてなしとして食べていただくご飯としては 「もう少し研究しよう」と話し合って3月のメニューからはずすことにしました。

というわけで 3月のお寺ご飯は再考です。


 

 

男の独り暮らしは楽しそう



奥さんが実家の母さんを介護するため不在になり 1月の末から独り暮らしを続けている 70歳過ぎの男性のお宅に伺いました。

ご夫婦のお住まいは松江市にあるのですが ご自身は我が家の近くにある実家で暮らしておられるというわけです。

実家は空き家になっていますが 管理上手のご主人がこまめにやって来ては管理しておられ きれいになっています。

「独り暮らしはいかがですか 家事のことなど不自由ではありませんか?」と ねぎらいのことばをかけたら 「これほど楽しいことはありません」と予想外の返事が返ってきました。

「昨日は蕗の薹を採り あぜ道まで歩いてみたら野蒜もありましたので 酢味噌和えを作りました」

「数日前には松江の友人三人がやって来ましたので 猪の焼き肉で楽しみました」と実に楽しそうでした。

「でも 後始末が面倒では?」というと 「煙が出ない便利なコンロがあるのですよ」といいながら 里山暮らしの様子を存分に聞かせてもらいました。

「私の趣味は 山歩きですから」とうれしそうに話されたのです。

限られた期間の暮らしであり 間違いなく奥さんとの暮らしが戻ってくるという安心感があってこその楽しみだろうと聞いていました。


 

 

会葬お礼



通夜やお葬式が終わったとき 喪主か遺族の代表が会葬者にお礼を述べられます。

家族葬が増えて省略されることもありますが 大体は行われています。

あいさつそのものは 業者が用意している例文にそって行われますので ご家族にとっては初めてであっても 地域からの参列者にとっては新鮮味がありません。

ときどきあいさつ者が本音をいわれることがありますが 上手下手でなくそれは実にあたたかく感じられます。

先日のごあいさつで 救急車で搬送される車中で交わした母と子の会話が紹介されました。

「今回はダメかもしれない」とつぶやいた患者の母に 同乗していた息子さんは「何をいってあげたらよかったのかことばが出なかった」と 悔やんでいると話されました。

息子さんの気持ちやその後の車内の沈黙を想像し 別離の姿を教わりました。

生身の人間がつくっている家族のあたたかさを感じたあいさつでした。 


 

 

過疎地人材バンク



「過疎地人材バンク」創設を計画しています。誰がつくるのかというと 私がつくるのです。

簡単に趣旨をいうと 地元在住者や地元出身者の中には 地元の人でもご存じない特技をもった人材がおられます。

その人たちを発掘し バンクに登録していただいて広く紹介する事業です。

田舎を出て都会で働いておられる人たちは 育ててくれた故郷をけっして忘れてはおられません。

ふるさと納税のように 「何かお役に立つことがあれば」と思っておられる方がたくさんいらっしゃいますので その方の思いを実現することにもなります。

バンクで企画を立てその特技を紹介し いろいろな面で生かそうと考えているのです。

地元の若者にとっては 「よし 自分も!」と刺激になるかもわかりません。あるいはその特技によって 過疎地の賑わいが創造できるかもわかりません。

発起人会を開いて 今後の展開を話し合おうと思っています。どんなバンクが誕生するか お楽しみに。

 

「非日常」の解釈



久しぶりに 旧知のお坊さんのお寺を訪ねました。

近況を語り合いながら 社会で活躍されている人たちがお寺に来られたとき その感想として「非日常を体験した」といわれたことを話しました。

そう話したときそのお坊さんが 「生活には厚さがあって 表層にある日常生活の深いところを体験されたということでしょう」といわれました。

生活の厚み」ということばに出会って 「その解釈はわかりやすいなあ」と思いました。

考えてみると 生活といい人生といい 表に出て見えていることだけではありませんよね。

他人に見える姿の裏側というか 奥底には ご本人が気づいていないものも含めて深いものがあるのです。

その深みに一瞬の光が当たって 深みがあることに気づかれたことが「非日常体験」だったのです。

表層に現れている毎日の自分が 深いところにあって気づかない自分と関係していることを学ぶという「非日常体験」があったのです。