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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

空き家が一軒増えました



「お仏壇をかたづけたいので」というお宅にお参りしました。

生まれ育った家を処分するというので お仏壇をかたづけておきたいというお話しでした。

ご両親が亡くなられ 跡継ぎの方は都会に家を建てて生活しておられます。

働き場所がある都会で暮らし すでに38年。今年が定年ですが 家や畑はあっても田舎に帰るつもりはないといわれます。

お姉さんが市内に嫁いでおられるのですが 嫁ぎ先の家を維持しなければならないので この方も家の処分を望まれていました。

今年になって3件目のご本尊引き揚げのお参りです。

希望通りに家や畑の買い手が現れたらいいのですが 簡単ではないと思います。

一所懸命という文字が一生懸命に変化したように 田畑や家の価値観が変わっています

カタチあるものへの価値観は変わりましたが カタチが見えないものへ価値観を変わらないと思います。

空気や健康 コミュニテイや宗教の価値観は変わることはないはずです。

宗教心を忘れないでくださいとお話して ご本尊を持ち帰りました。

 

 

他人のために生きるとは



辛いことや心配事が生じたとき 逃げないで向き合えばとても大事なことを学べるように思います。

そして生き方も変わるように思っています。

お釈迦さまは「一切は苦です」とおっしゃって その解決方法を教えてくださいました。

ところがその方法を実行することは じつは大変なのです。

素直に向き合っておられた親鸞さまは 「解決できないから超えるのだ」といって 道を見つけてくださいました。

それは 「他者のために生きる」ことでした。

自分中心の生き方の中で 少しだけでも他者を思う。そして役に立つことができたのだろうかと考える。

その繰り返しのどこかで 自分自身が生かされていることに目覚め 新しい生き方が生まれることでした。

ちょっとわかりにくい話。
困ったことに ときどき自分に話したくなることです。


 

 

10連休が始まりました



10連休が始まりました。

長い休暇をどのように過ごされたのか 連休明けの話を聞くのが楽しみです。

何を中心にしてプランを立てられたのかで 本人の考え方や家族の様子が分かるはずです。

とびとびの出勤や ちょうど農繁期と重なる時期でもあり それをどのように過ごされたのか興味があります。

私は 丸一日なにも予定が入っていない日を三日間いただきました。

最初の一日は 数年前から願っていた高知の「サウンドミュージアム」に行こうと思っています。

あとの二日のうち 一日はリフォームしたお風呂と洗面所で使うものを買いに行く予定。残った一日は バラガーデンの草取りをしてゆっくり過ごそうと思います。

といっても諸行無常。何が起こるか分かりませんので 頭の中はフリーにしておきます。

みなさん 存分に楽しんでください。


 

 

楽しみ方探しはお坊さんの役目



過疎地域で暮らしに向き合って気づいたことがあります。

私たちには 周囲にある環境の中で「白紙に絵を描く」ような楽しみがたくさんあります。

外から与えられたり 外に求める楽しみが多くないからです。

毎月のように行うお寺の行事は 外から投げかけられる楽しみになりますが みんなでつくる楽しみにすることも出来るはずです。

そのように考えて 地域に発信するお寺の行事を 地域の人たちと話し合ってみたいと思っています。

たとえば 「ビアガーデン・ホールの日」や「ピザを焼く日」などがあったらどうでしょう。

明日は伝統的なお寺の行事ですが そんなことを提案してみようと思っています。



 

 

仏教に何かを求めた事業家



故ステイーブ・ジョブズさん 稲森和夫さんのお二人とも すばらしい業績を残された事業家です。

このお二人の生涯の中には つよく仏教に惹かれられたお話しがあります。

お二人とも「禅」の教えに身心を寄せて 何かを求められたようです。

それが何であるのか ご本人が語られたことばは見つかりませんが 推察はできます。

事業家は 重い責任を抱え そして孤独です。存亡に関わる決断をしなければなりません。

だれの力も借りることも出来ないことを 行わなければならないのが仕事なのです。

お二人が仏教に求められたものは 決断のひらめきだったのでしょうか。あるいは決めたことを確認するための 無心の境地だったのでしょうか。

お二人が仏教に求められたことは 間違いなく「自己の愚かさと弱さ」を学ぶことであったと思います。

「自分の身のほどに」気づいたとき 成否に関係なく 「自分が納得する行動をし 納得するものをつろう」という覚悟が生まれたのではないかと思っています。

仏教は いろいろなことを気づかせてくれますが その根元は「我欲に気づき 愚者になれ」という教えですから。



 

 

匂いの研究



匂いを研究しているプロジェクトの話を聞きました。

高齢者施設や子ども園などの匂いを嗅いで 不快と感じる匂いがあれば消そうという研究をしているのです。

まだ成果は出ていないようですが いろいろなことを実験ながらすすめられています。

地域とか施設や居宅には 特有の匂いがあります。工場地帯や牧場 あるいは港の周囲では すぐそれとわかる匂いがあります。

病院とか介護施設などで 消毒薬などの匂いを感じることもあります。中には不快感を感じる匂いもあるので それを薄めたり消す方法を考えているのです。

京都の門前町を歩いていたら とてもさわやかな香の香りがする場所がありました。看板を見たら香の専門店で お店の前で香が焚かれていたのです。

ウナギとかサンマを焼く匂いを わざと周囲に出すこともあるので 匂いは大切なものです。

昔の自動車の排気ガスの匂いが好きでした。サーキットでタイヤが焼ける匂いも好きでした。乾いた洗濯物の匂いが好きになりました。赤ちゃんの匂いがうれしかったことも思い出します。朝の味噌汁 パン屋さんの匂い・・・・。

消すことより いろいろすてきな香りがする場所をつくるという発想もありますね。


 

 

ドビンゴが死んでしまいました



昨日の夕方 スズメのひなが落ちて鳴いていました。

施設の軒下にツバメの巣がありますが その巣を借りて子育てをしていたのだと思われます。

親と思われるスズメが 軒先から下を覗いて盛んに呼びかけていましたが どうすることも出来ず鳴き続けていました。

帰宅前の数人の職員が集まって「どうしたらいいのか」と話しましたが 高い場所の巣に帰してやることはしなかったのです。

自分の無慈悲さを思いながら帰宅しました。

今朝 子スズメは死んでいました。

施設の朝礼で この出来事をおはなしました。

どうすることも出来なかったという事実から逃げないで だから仕方がないと妥協せずに 心の痛みを失わないようにしたいものだと紹介しました。

「今生に いかにいとほし 不憫とおもふとも 存知のごとくたすけがたければ この慈悲始終なし」という『歎異抄』のことばが浮かびました。


 

 

話したくなるとき



とつぜん「(まとまった話を)話したいなあ」と思うときがあります。

どんなときにそうなるのか分析するようにかんがえると 思い当たることがあります。

頭の中で新しい発見がおきているとき 本を読んで刺激をうけたとき 問題解決のヒントが浮かんでいるときなどです。

それは 誰かに話すことによって そのかんがえが固まるか 逆につまらないものと気づくからです。

これは リトマス試験紙を入れて酸性がアルカリ性かを調べるような行為に似ています。

しかしそれ以上に 人に話すことによる別の成果がおもしろいのです。

話しの中の何かについて 別の意見や質問があると そこから新しいかんがえが生まれることがあるからです。

「まとまった話をしたい」と思って話すときは 聞いた人の意見や感想 質問を受けるゆとりをもっておくことが大切です。 


 

 

独居成人



検死の結果 15日にお亡くなりになっていたという男性のお葬式にお参りしました。

発見されたのは2日後の朝だったそうです。

お風呂から出て 着替えを済ませたのちに風呂場でお亡くなりになったようです。

過疎地では 独居老人の安否確認は気をつけていますが 独居老人の対象にならない人に対してはとくに強く意識していません。

周囲の人たが 独居老人として意識する前の独居成人も増えています。

その人たちのことを「独居成人」と位置づけして安否確認をしなければならない環境になってきているようです。

まずは「独居成人」ということばから始めましょう。


 

 

山菜の季節到来



夕方家内に頼まれていた「フキ」を採りにでかけたら 「ワラビ」と「クレソン」が目にとまりました。

さっそく山菜料理の準備が始まっていますので 明日の食卓にでてくるはずです。

夕食をたべているとき お世話になっているお方が 「ハナウドとタラの芽を てんぷらにしませんか」といって持参してくださいました。

先日いただいたのは タケノコとコゴミ。
いま山菜の真っ盛りです。

都会で暮らしている人たちに このような暮らしはどのように見えるのでしょうか。

私たちにはとくに珍しくもない暮らしですが 都会の人にとってはちょっとうらやましい暮らしに見えるのではないかと想像しました。

同じようなものを食べようとしたら 市場で買うか あるいは休日に乗り物に乗って山に行かなければなりません。

「そんなものを食べる必要はありません」と思えばその通りですから 得意になったり残念に思うことは無用です。

でも 自然という不思議なものと直に向き合う体験は さまざまなことを考える大切なことと思うのです。