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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

聴くこと


隈研吾建築事務所に行っての帰りがけに 先生が「これ ボクの本ですが」と はにかむように笑いながら お土産にと一冊の本を下さいました。

『なぜぼくが 新国立競技場を つくるのか』という最新の本でした。

読みたいと思いながら購入していなかった本で 早速帰りの飛行機の中で読みました。

共鳴して刺激をいただくことが多く 夢中で読みました。読みながら考えたことを 車の中で家内に話しながら帰宅したのですが 「出会い」という出来事によって 人は変われることを感じていました。

うれしかったことは 隈先生が私たちの話を 真剣に聴いてくださったことでした。

顔を見ながらしっかり聴くことによって その人が暮らしている環境や その人が求めている本当のことまで聞き取れるという姿勢でした。

本の中に 「設計士の仕事は調整です」ということばがあり 聴くことは いいお花を咲かせようとする始まりと思っておられるように感じました。

私たちにとっては 手に入った「変化のタネ」を播いた日です。

どのような芽が出てどんな花が咲くかわからないので 少しばかりの不安も怖さもありますが その不安払拭をバネにして 何が起こってもいいように準備するスイッチが入ったように思っています。


 

 

これから何がおこるだろうか


昨日東京の南青山にある  隈研吾建築事務所に行って来ました。

目的はお寺の庭を変えることによって お寺の新しい魅力を出すことができないかという相談をするためです。

隈研吾さんに直接お話させていただき 過疎高齢化地域のお寺の実情を聞いていただました。

先生は真剣に話を聞いてくださって 「考えてみます」といってくださいました。

この後どのように展開していくのか まったく想像ができません。

どのように展開しても  宗教への関わりが多様化した現代社会との繋がり方の模索は 続けようと 改めて思いました。

 

 

蝉はどこに行ったのだろう


数日前にミンミンゼミとツクツクホウシの声を聞きました。

7月に1日か2日くらい聞いて しばらく聞くことがなかったので 出て来てくれたとうれしく思ったのです。

ところがわずか1日鳴いただけで 今はもう鳴きません。あの蝉はどこへ行ってしまったのだろうと気になります。

「蟪蛄春秋を知らず」といいますが 一日の命ではないはずです。

暑さに驚いて山の奥か地中に避難してしまったのか それとも死んでしまったのかわかりません。

暑さのために生態系が変わっていることは感じますが 毎年続くようであれば 人間も生活を変えなければならなくなりそうです。

 

 

根を張るところ


周囲の人の生き方を観察するとき 「この人が根を下ろしているところはどんなフィールドだろうか」という観察をしてみるのもおもしろいことです。

それによって 何かアドバイスすることがあるからです。

多くの人は 家族や健康 あるいは仕事の上に根を下ろしていると思います。また極端な人は お金儲けにしっかり根を下ろして エネルギーを使っている人もあろうと思います。

しかし考えて見ると 根を下ろしているはずの そのようなフィールドはとても不安定なところで 根無し草のような状態と同じではないかと思えます。

健康の上に根を下ろしている人が病気になれば 突然足もとが崩れることになります。お金も仕事も あるいは家族も自分の人生の根を下ろすところとしては 盤石なフィールドではなく不安定なところです。

自分がそのような状態であることに気づくのはとても大切なことと思いますが そのためには不動不変のフィールドに根を下ろさなければ気づけません。

そのフィールドのことを 「真実」というフィールドと聞いていますが そこに足を着けて生きる人生に出会うことが大事に思えてきました。


 

 

花のこと


花が好きな人には 共通した感性があるのではないかと感じるようになりました。花の種類ではなく 庭や道端仁咲く花を愛でる人です。

花は種を落としたところで育ちます。花自身に「私は肥沃な土地がいい」といった 環境を選ぶことは出来ません。

環境に合わなければ絶滅することになるのですが もし発芽して成長したら かならず花を咲かせます。

野の花はもちろんですが 庭で育てる花にしても 観賞してもらうために咲こうとしているわけではなく ただ自分のいのちを全うしているだけです。しかも限られた期間のいのちです。

蕾が色づく美しさ 満開の華やかさ 朽ち始めるいとおしさなど 一つの花一株の花が共感を贈ってくれます。

かっての私には こんな思いをもつことはありませんでした。家内の花作りにつきあっているうち いつの間にかすこしずつ花に寄り添えるようになりました。

 

障碍物



「おのおの10余カ国のさかいをこえて 身命をかえりみずしてたずねきたらしめたまう おんこころざし ひとえに往生極楽のみちを問い聞かんがためなり」ということばが 『歎異抄』という本に書かれています。

親鸞聖人が 京都まで自分を訪ねてきた人々に話されたときのことばです。

このことばが交わされた時代は 鎌倉時代で 遠い昔のことですが 今の時代に置き換えてみたら大変勇気をいただくことばに聞こえます。

過疎化が進む地方都市は 懸命にIターンとかUターンをすすめ その方策を考えています。工場誘致や起業や子育て支援に施策を打ち出して 地方への移住を計画されているのです。

ところがこの古いことばの出来事は 「往生極楽のみち」という 一本の道のことを聞くために はるばる関東から訪ねたという出来事です。当時の人にとっては その道を聞くことが それほどまでに大事なことであると思っておられた事実です。

日本の観光地が若者や外国からの人で賑わいますが それは何かを求めて遠くからやって来ているのです。

「上手に仕掛けられた 関心が湧く何かがそこにあり」 そして「それは誰でも手にすることが出来る」ものだからでしょう。さらにそれを「多くの人に知らせる」専門業者やSNSのような手法が整っているのです。

多くの人は「往生極楽のみち」などに関心はありませんが 関心が湧くような仕掛けがあれば可能になるという実例です。

当時の人が大事に思っておられたことが 現代では無意味なことになったのでしょうか。きっと雑音や障碍物のために 気づかなくなっているだけだと思っているのです。


 

 

時計の針はなぜ右回りか



「夏休み子ども科学相談」というNHKラジオの放送は 大変おもしろいですねえ。質問内容も 着眼点もほんとうにおもしろいと思います。

昨日の質問で 「時計の針はなぜ右回りなのか」という質問があったらしいのです。

その質問と回答する先生のやりとりは聞かなかったのですが 放送終了時に 回答者が今日の感想を話されているときに その質問があったことを聞いたのです。

「大人には難しい着眼だよなあ」と感心してしまったのです。

「それはそうなっているんだ」と いつの間にか疑問を感じなくなっている現実を 純真さが失せている現実と気づかせてくれたように思いました。

子どもたちの純真な着眼点を大事に残すことは 大人の責任だと思います。「今忙しいんだ」と逃げないで ごまかさないで「いっしょに考えて見ようよ」といいたいものです。

 

 

天気予報


台風の情報がニュースのトップで ていねいに報道されています。

進路に当たるといわれている地域の人々にとっては 大変不安だろうと思います。

先日の集中豪雨災害のときから 報道の内容が変化したことに気づきました。雨量や風速の色づけが変わったことや 河川の水量表示などが出るようになっています。

気象庁では早くから取り入れられていたことでしょうが 公開されるのは最近のことだと思います。

自分や家族などが暮らす地域の状態がよくわかるようになって 避難行動などが早めに出来るようになったと思いました。

現地の計測器機の情報を集めているわけですが 時間と経費をかけ 大変なことが行われているのです。

また同時に 早々と避難所の開設が報道されていました。天気予報に連動する対策も充実してきたことを思いました。

自然の力はどうすることも出来ないようにも思いますが 温暖化の原因になる大気汚染対策など 将来を見て生活を変化させる取り組みも大切になります。


 

 


千葉からお見えになった方々を墓地へご案内したときのことです。

ちょうどそのとき 頭上を飛行機が通過したのです。機体が見えませんでしたから かなりの高度を飛んでいたと思います。

そのとき一人の男性から 「あの音はなんの音ですか?」と質問されました。「あれは飛行機の爆音です。この山のはるか向こうに岩国基地がありますから そこから飛んでくる軍用機だと思います」と教えました。

千葉といえば 成田空港などがあって 上空を飛行機が飛ぶことは珍しくないはずです。当然 爆音など何度も聞いておられるのにと 質問の動機を妙に感じたのです。

夕方でしたから 飛行機雲は出ず 機体の確認は出来ませんでしたが 爆音が薄らぐまで一緒に音を聞いていました。

墓地から帰りながら あの質問は 田舎の静けさから出た質問だと気づきました。

自動車とかバイクの音 音楽などの音がない田舎なので どこからともなく降ってくるような爆音は 不思議な音に聞こえたのでしょう。

田舎に暮らしていたら 何でもない飛行機の爆音ですが 静けさに不慣れな都会人にとって 原っぱに降るように響く爆音は耳新しい音になったようです。



 

 

結論が先


ビジネス関係の研修会で教わったことで 今も大切に実行していることがあります。

それは 報告のとき「まず結論をいいなさい。そのあとで詳細や経過を報告することが大切だ」という教えです。

ところが 甲子園での高校野球大会の実況放送をラジオで聞いていると ほぼ経過ばかりが放送されているのです。もちろん ビジネスの報告をされているわけではありませんから 違って当然であることは承知しています。

私がラジオを聞くのは 家庭へのお参りの途中で 途切れ途切れに放送を聞くことになります。

「ただいま ××回○○高校の攻撃中。得点は△対□で○○高校が●点のリード。ピッチャーA君 第一球を投げました」と話して欲しいのですが 大体に得点を聞かせてもらえなかったのです。

しばらく聞いているとわかるのですが 途中経過の中での結論になるはずの両チームの得点を タイムリーに聞けなかったのです。

アナウンサーの人たちは試合の状況や 球場の熱気などを巧みに伝えてくださるのですが 状況描写が多くて 私のような聞き方をした人間には 少しばかり不満があったのではないかと思ったのです。

スポーツの実況放送は 短編小説のようなドラマとして構成しようとされているのだろうかと想像して 100回目の記念大会の実況放送を聞きました。