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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

変化



昨日朝出会った男性に 「今夜は中秋の名月が見れそうだね」といったら 「今夜が十五夜ですか ススキは出ていませんね」ということばが返りました。

そういえば 子供のころの観月はススキと芋をお供えしていたことを思い出しました。

あわせて 祖母が「名月を 取ってくれよと 泣く子かな」という句を教えてくれたたことも思い出しました。

ススキの出るカヤが減りました。お芋を作る人も減りました。

月を観る子どもも減りました。

気象や環境など 身近なものが50年ですっかり変わってしまうのです。

昨夜はススキもお芋もありませんでしたが 二人で澄んだお月さまを眺めました。


 

 

愚者、フーリッシュ、あほ・・・・。



「愚者」とか「バカ」 あるいは「フーリッシュ」。こんなことばにひかれるときがけっこう増えています。

ふつうは否定的なことばのはずなのに 私にとってはものすごく肯定的で 「うん いいなあ」とバネになるような感じがします。

人前で馬鹿者とか 無知なやつだといわれても 役立たずとか邪魔者といわれているんではないことを知っています。

けっきょく「愚者」にしても「フーリッシュ」にしても 何かに夢中になって周囲に気づかなかったとか 世間のことを知らないときにいわれることが多いのです。

また世間が本気で相手にしないことを 行っているときもそういわれます。

そんな見方をしていると 「えらい」人になるより バカになって生きる方がおもしろいと感じるようになっているのです。

ステイ フーリッシュ!


 

 

覚悟ができるまで




「どうしたら魅力的な会になるのでしょうか」という相談を受けているひとつの会があります。

その会の目的は 仏教に関心をもってもらおうという会なので お寺と同じ目的の会です。

相談を受けた私は せっかく話し合って立ち上げた会を 次第に先細りさせてきた失敗の体験者です。

相談を受けてから考え続けていて 問題の解決策を見つけたように思っているのですが このたびはすこし時間をかけることにしています。

失敗の体験を無駄にしたくないからです。

何が失敗で どれくらい待つのかというと 解決策をやりきるという覚悟が自分の中にできるまでの時間です。

かならずやりきろうという覚悟をもたないで 見つけたアイデアに飛びついて中座した轍を踏まないようにしたいからです。


といっても勢いが必要ですから それほど長い時間はかからないと思います。

新しく参加する人がない会やお寺が先細りして やがてなくなるのは当然です。

やりくりしながら衰退を続けるか それとも結果はどうなるかわからないが変化を実行するか。

覚悟を問う相談をもらっています。

 

 

敬老会



敬老会に招待されましたが 今年も欠席しました。

地区で開催される敬老会の招待者は 75歳以上の高齢者です。

すでに5年前から招待を受けているのですが 欠席ばかりです。

欠席を続ける自分の心理をのぞいてみたくなって 敬老会当日のお参り先で 「気が進まないのですよ。なぜでしょうかねえ」とたずねてみました。

その家のご主人は 「『自分はまだ元気だ』という見栄があるのではないですか」といわれましたが 確かにそれは少しあります。

そのあたりからしばらく話していたら 「元気だ」という身体的な意味からではなくて まだ現役で働いているという社会的な立場から出ている感情があることに気づきました。

つまり「まだ皆さんから敬われる側に行けない」という社会的なこだわりがあるのです。

会に参加してお祝いを受ける側に座ることは 働くという社会貢献ができなくなったからだという おごりの心理が顔をだすのかもわかりません。

素直にお祝いをしてもらうことができない自分は 人間としてまだ未熟ともいえるようです。


 

 

尊厳死とは



余命を宣告されたご婦人の点滴注射が中止されました。

ご家族全員がお別れにこられ 高齢であるうえ もはや治療することがなくなった状態での判断でした。

ご家族同意のうえで 主治医が判断された中止です。

往診に来られた主治医が 「呼吸が止まったら知らせて下さい」といってお帰りになりました。

それは「尊厳死」という 老衰による死の始まりでした。

そのとき このような人生の終え方が なぜ「尊厳死」と呼ばれのかわかりました。

それは意志をもって延命などを判断することなく すべてをご本人の「いのち」にお任せすることでした。

思った通り おだやかな終焉を見守ることになりました。


 

 

余命2日



96歳になられたご婦人がいらっしゃいます。

三日前に 主治医の先生が「土曜日か日曜日くらいでしょうか」と余命を告げられたそうです。

そのお話を聞いたので 施設のお部屋に行きました。

ベットに横たわり 苦しそうに呼吸をしながらしきりに足を動かしておられました。

「しんどそうだなあ」と思いながら ご家族とお話ししながら様子を見ているばかりでした。

すっかりやせ頬は落ち込んでいましたが 以前の面影は少し残っていて その変化に老いの現実を見せてもらっていました。

しばらく横に立っているとき ふと「人が死ぬとはこういうことなのか」と思っていました。

現実を一切引き受けながら それにつれて今までの喜怒哀楽が消えていくという姿です。

やせた肉体のほかには何も残らない。

これが死ぬということなのだという不思議な感覚でした。

主治医の医師の宣告通り 昨夜午後11時過ぎ ご家族に見守られながら亡くなられました。

なむあみだぶつ。


 

 

浮動票



糸井重里さんが 緩いつながりのことを「浮動票」といっておられましたね。

とっさに思いつかれたことばではなく いつも使っておられることばのように感じました。

宗教心があっても 宗教がない人のような人に当てはまると思いながら読んでいました。

初詣やお墓参りをされる人 あるいはお通夜などにお参りの人には そういう人が多いのではないかと思います。

そうしないと 「なんとなく済まない」とか「何かいいことがあるだろう」という漠然とした感じが宗教心。

宗教は 一つの教えから自分の居場所に気づくこと。

そんな考えをしてみたら 浮動票が人生を支え動かすような力になるには 近くて遠い距離があることに気づきます。


 

 

頭でっかち



自分が「頭でっかち」になっているのではないかと自問することがあります。

これからのお寺の役割をどうしたらいいかという方向が見つからずに 考え続けているからです。

即時にできる思いつきや 反応を確かめたいことは実行していますから 何も行動していないというのではありません。

あれこれとアイデアを考えることが楽しくなってしまうと 本物の頭でっかちになりそうなので適当なところで見切りをつけて実行はするつもりです。

考えることと実行の標準的な比率があるわけではなかろうと思いながら 今は考えることに重心をかけている感じです。

もっともお寺の仕事は目に見えないことが多いので 実行していてもわかりにくいこともあります。

あんがい頭でっかち傾向で試行錯誤していると 腑に落ちる方向にぶつかることもありそうなので しばらく続けます。


 

 

カボスにスダチ そしてレモン


裏の畑に カボスにスダチそしてレモンが実っています。

今年 我が家の食卓にはまだ秋刀魚が出ません。そのう食卓に乗る日があると 心待ちにしています。

その日は さっそく畑に出てスダチをもいでこようと思っています。

焼きたての秋刀魚に スダチを絞っていただく場面を想像しながら春に植えたものです。

味覚の秋 そのときが間もなく到来します。

想像して待つという楽しさを感じています。


 

 

八枚の絵



本堂にお釈迦様のご一生が描かれた8枚の絵を掲げています。

お見えになったお方にその絵を紹介していましたが よりていねいにお話ししようと思い直しました。

その絵が伝えようとしていることを 私に届いたことばでお話ししようと考えているのです。

お釈迦様のお悟りは 人間と社会の真実の発見です。そして真実に近づく道の発見です。

たとえば 絵の一枚に 出家の場面が描かれているものがあります。

人間が現実から逃げ出すことは家出といいますが 高みを目指して現実を出る場合は出家といいます。

出向とか異動など人間社会のできごとと重ね その辞令を出家として受け止める見方があると思っています。

高みの境地があることに気づき そこへのスタートが描かれた絵として鑑賞して語るつもりです。