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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

今日、法話をします


二日間の法座のご講師さんをお願いしたのですが 一日しか都合がつかないといわれました。

そこで 初日は私が法話をすることになりました。

かねてから思いの中に納めていたことを聞いていただこうと思っています。

意識していることはいくつかあります。まず第一は 出来るだけ専門用語を減らしてお話しすることです。

二つ目は自分がいただいていることを自分のことばでお話しすることです。

三番目には 対話になるような話し方を試みることです。自己満足で終わらないように 共感していただきながら話したいと思っています。

お寺は 「なぜ生まれたのか」「何を求めて生きているのか」に気づく場所だと思っています。

​それには時間が必要に思いますが それに気づいて生きるというライフスタイルは魅力的なものだと思います。

 

 

タネを播きます



赤いのは蔓ウメモドキ 黒いのは山吹のタネです。これを播こうと考えています。

蔓ウメモドキは お寺の行事のときの立華で使うことが多い華材です。このタネは昨年使った華材から採ったものです。

山吹は 「七重八重 ・・・ 蓑ひとつだに なきぞかなしき」と詠まれた山吹ですが 実がある山吹なので播いてみます。

「タネを下さい」と畑の持ち主に声をかけたら 笑いながら「時間がかかりますよ」といわれました。

「あなたが生きているうちに花を見ることが出来ますかねえ」といわれたようで 一瞬「そうか そうなんだ」と思い 「いや花を見るまでは」と思い直しました。

陽気がよくなって庭仕事が楽しくなっていますので 思いついたことをあれこれ手をつけています。

「山照らし」と呼んでいる灌木の枝を剪って挿し木をしました。野バラのアーチをつくるために根っこを掘り出して育てています。毎日の水やりを忘れなければ 土と太陽の力で根を出してくれると思っているのですが。


 

 

大切なニュース


土砂崩れの現場から一名のご遺体が見つかりました。日米の首脳会談が行われ、話し合いの内容が報告されました。

次官と県知事がセクハラ問題で辞任したというニュース。深夜の火災で民家が焼け安否不明者がおられるというニュースもありました。

ボーイング社の飛行機の不具合が確認されて 飛行距離が制限されたというニュースもありました。

世界の隅々でいろいろな出来事が発生していることを改めて感じています。

自分の身近なところでも 療養中の家族が危篤になったという話。魅力的なお寺になるための話し合いの日程調整や 行事のための準備予定を打ち合わせがありました。

一つ一つに大小はありますし 関係の深さや緊急度は異なります。

自分に直接関係があることや積極的に関わらなければならないこを無意識に選別し それ以外のことは忘れます。そしてそのとき 関わり方まで考えているようです。

毎日のようにその行為を繰り返すのですが いったいどういう意識によって選別しているのでしょうか。一度考えてみるのもおもしろいと思っています。
 

 

視点を変えてみる習慣

自分の視点が偏っていることに気づきました。

周囲に生じている状況からの気づきには比較的敏感に反応してると思っています。ところが そこに立っている当事者の気持ちについて思いを向けることは少なかったのです。

私の視点は つねに外部に出ている現象に注いでいたのです。

ただいま服役中の男性が逃走しています。いまどこに潜んで何を考えているだろうかといった 当事者の心理に共感することはなかったことに気づいたのです。

何を食べ何を飲んでいるのだろうか 身を隠す場所をどのように選ぶのだろう あるいは一瞬でも逃走したことを悔いることがなかっただろうか。

捜査の様子がわからないことが不安ではないか いつまで逃げおおせると考えているのだろうか それすら考えることが出来ない状況なのだろうか。

人の気持ちに寄り添うことは大切なことと思いながらも 大小いろいろな出来事がおこったとき つねに部外者として見ていたのです。

この習慣を変えることによって 何か新しい生き方に気づけるのではないか ふとそう思いました。

​山中の捜索も必要ですが 「はやく出て来なさい 罪は軽くなりますよ 」というポスター張りもいいのではないかと思うのですが。


 

 

倒れない木


先週の土曜日は 夜中にずいぶん強い風が吹いたようで 庭のバラの木が2本根元から折れました。

またモッコウバラのアーチも大きく崩れ つるが傾いて下で咲いている花の上に覆い被さっていました。

朝起きて気づき 大急ぎで応急の処置をして 太くなったモッコウバラの枝は手伝いの人にお願いをして修復をしました。

終わったあと倒れなかった木を見ながら なぜ倒れる木と倒れない木があったのだろうと思って眺めていました。

根がしっかり張った木は倒れていません。頭でっかちになった木は倒れていました。

落葉した木も倒れていません。粘りの多い性質の樹木も倒れていません。

人生において受けるいろいろなストレスを強風に置き換えて考えて見たら そのストレスに耐えるためのヒントを教えられている気がします。

無理やり背伸びしないのがいい。あるいは背伸びをしたなら それにふさわしい根を張ることを怠ってはいけない。

無用な情報や所持品を捨てることや ときに応じて状況に従うしなやかさを養うことの大切さを 樹木が教えてくれているようでした。

 

 

「きれい」か「きたない」か



一面に散った椿の花びらです。とてもきれいに見えたので眺めていました。

すでに腐り始めた花びら、たった今落ちたばかりの花びら。いろいろな色が混じり合って不思議な模様が出来ていました。

これをきれいに思うか、それともきたないと思うかは見る人の感覚ですが、私にはきれいに見えました。


 

 

準備



21日と22日はお寺で法座を開きます。

法座というのは、仏法を聴聞する行事のことで、「法座を立てる」と呼んでいたお寺のイベントです。

二日間開く法座ですが、そのための準備は数週間前から始まっています。チラシやダイレクトメールでのお知らせはとっくに終えましたが、境内の清掃は一週間前に行いました。

天候を見ながら行うことなので、雨という予報を気にしていましたが雨の心配はなくなりました。この時期には草が一斉に伸び始めます。その草をていねいに抜いていただききれいにしていただきました。

あとは当日、朝から本堂内外の掃除と荘厳です。それまでにお供えものの手配とかお花、お参りの子供たち家族への接待を準備するのですが、これも抜かりなく準備しなければなりません。

ことを行うためには事前の準備が欠かせません。いつものこととしてマニュアル通りに準備することも出来ますが、季節の変化や、常連のお方の体調なども考えながら準備をします。

今回の法座には小学校に入学した子どもさんやそのご家族さんもお招きします。さて当日のお天気はどうでしょうか。

 

 

肌で感じる


「肌で感じる」ということばを聞くことが少なくなったように思うのですが気のせいでしょうか。

研修はエアコンの効いた部屋で、パワーポイントや資料を駆使して行われることが多く、現場研修も現場視察後に時間を割かれているように感じます。

その場の温度や匂い、あるいは空気の動きや音など、五感で感じることを肌で感じるといいます。頭で知識として理解するというより、全身で知識以外の何かを感じることをいったことばです。

たとえばお葬式の場で人生を感じることなどは、人生を肌で感じるといえる例だと思います。

「人生は必ず終るものだ」とか「死んでしまったらつまらない」という建前のことではありません。

その人との出会いによっていただいた思い出や、遺族が悲しまれている様子を見ながら、無意識のうちに何かを感じているのではないかと思うのです。それが人生を肌で感じることなのだと思っているのです。

間違いなく死の方に向かっている自分は、何をめざして生きているのかという自問が生まれるときだと思うのです。そのような問は、肌で感じるからこそ起こる問だと思います。


 

 

真実


桜が終わり、木蓮やチューリップが花びらを落とし始めています。椿は早くから散り始めて、当分は路を汚します。

春の花が終わるとやがて夏の草花を見ることになりますが、落ちた花を見てふと人生に出会ったような気がしました。

落ちて朽ち始めているものや落ちたばかりの椿の花を見ながら、花を落とした樹を見上げたのです。

そこにはやがて落ちる花がついていましたが、やがてその花も落ちて落とした樹が残ります。何かを成し遂げて落ちた花の姿はかりでなく、そこにある何かを残された樹を見上げて人生に出会ったような気がしたのです。

花を落としたことなど気づこうともせず、何ごともなかったかのように樹は立っていました。しかし目には見えませんが間違いなく少し大きくなり少し根を伸ばしているのです。

自然の変化に逆らうことなく、椿は椿の性質に従って変化しているのです。人間だって自分の性質に従って変化していますが、はたしてよくなっているのだろうかと考えたのです。


 

 

自分の考えは正しい


すべてのお坊さんがそうであるとはいいませんが、お坊さんには自分は正しく生きている、自分の考えは正しいという思い込みが強いところがあるようです。私もその一人です。

教えを説く立場になると、つい間違っていることや教えを外れていることが目につきます。

先日お坊さんのツイッターに、通夜で出されたお弁当の写真が出ていました。そのコメントに、精進料理でないことへの批判が書かれていたのです。

通夜とかお葬式のときの振る舞いは、精進料理で行うのが常識という思いで書かれていると推察して読みました。

今の時代に、生くさい料理で通夜の接待をすることは間違っているのでしょうか。正しいことを知っているという思いがあるとつい批判したくなりますが、私には間違っていると思えないのです。

いまどき、精進料理のお弁当を準備してくださる仕出し屋さんは簡単には見つかりません。料理に欠かせない出汁一つにしても、カツオとかイリコが入っているでしょう。食材集めも簡単ではないはずです。

精進料理でないことを仕方なく容認するのではなく、また古い時代と比べることもしないで、あらためて通夜とかお葬式を営む意味を一緒に考えることが大事に思うのです。

死別という特別な状況の中で、お坊さんは何を感じていただこうとするのか。私は、限られた出会いの場でのひとことを準備することに注力したいと思うようになっているのですが。