HOME
»
過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

読み解く



読み解くということばがあります。「ああ、深い表現だなあ」と思いました。

経典を読んでいますと、私たちが日常で使っていることばに突然出会うことがあります。例えば救済とか歓喜とかいうことばですが、このことばを現在の感覚で理解したら、そのことばの本意を誤ることになると気づいたのです。

そこにそのことばが使われた社会背景や、お使いになった人物について考えながら読む。それが「読み解く」という意味でした。

「融資して救済しよう」と使用している救済ということばの意味が、「如来に救われる」という救いとまったく同じ意味ではないのです。

困ったときとか絶望の状態が解決される事実が、如来の救いと同じことではないのです。

如来の救いということばは、一時的で表面的な状況の救いではなく、死を抱えて生きる覚悟が決まるといういのちの救いなのです。

経済的な行き詰まりによる苦悩とか病気などによる苦悩を抱えながら、その状況の中で生きることが出来るということです。

読み解くことの大切さを感じながら経典と向かい合っています。

 

 

年末年始の休みが終わりました


今日は福祉施設の仕事始めです。といっても、介護には年末年始もお休みはありませんでした。

人が生きるということには、お休みするという時間がありません。食べる飲む、そして排泄などは待ったなしでおこります。

気が緩みがちな休日期間、介護者は注意深く事故なく役目を果たしたようです。ありがたいことです。

同じようにお寺にもお正月休暇はありません。「死」という出来事は予定することが出来ないからです。


世間は豊かになるにつれ休日を増やそうという傾向になります。集中して働いて収入を得て、それから長い休みを取ることが豊かさだと思い始めているのです。

それは暮らしの質を高めるということでは悪いことではないと思うのですが、豊かさを追い続けることによって、いのちには終わりがあるということが忘れがちになることを心配します。

難しいことですが、「老病死」の現実を忘れずメリハリをつけた暮らし方を探したいと思います。
 

 

伝統で伝わっているものがある


仏法を伝えるためには変化しなければならないという思いは爆発寸前の状態になっています。

そのための試行錯誤を繰り返し、小さな変化は続けているのですがまだ爆発していません。

爆発するような派手さはなくても、小さな変化の積み重ねが大切なのかもわかりません。

失敗したときの不安とかおそれ、笑われたら困るといったプライドはないのですが、伝統を破壊することの心配は払拭できないのです。

定着している伝統やイメージがすっかり変わったとしても、伝える仏法の内容が変わるわけではないという思いはあります。

しかし一方で、仏法の内容は行事とか仏教文化といった伝統によって伝わっているということも否定できないのです。

頭の中でこのような思考を繰り返しながら、寺号に変えて「気づき研修所」としての活動に舵を切ることにしました。



 

 

先入観


60代後半で一人暮らしをしておられる男性の家にお参りしました。

お手洗いを借りたとき廊下にギターが置かれているのを見て、「ギターを弾くの?」と尋ねました。

関西の会社に就職して寮に入ったとき、寮の先輩が弾くギターに魅せられて始めたと話してくれました。「待ってました」といわんばかりの話しぶりで、修得した曲のことや練習方法などを聞かせてくれました。

日ごろのおつきあいでは知ることがなかった趣味があったことにまず驚きました。

しばらく話していたら、突然「弾いてみましょうか」といって、ギターを取ってきて弾き始めたのです。

毎晩のように触っているという演奏の腕前にも驚きましたが、それよりも驚いたのはその積極さでした。

その驚きは、日ごろの生活や性格についてあまりにも知らなかったための驚きでした。

おつきあいがある人のことを積極的に知ろうとしなかったためですが、いつの間にか人に対する先入観のようなものが定着していたのです。


 

 

新しい年になりました


お早うございます。さあ新しい年の始まりです。といっても昨日の続きで、衣服を変えても自分は変わっていません。

そうではありますが、挑戦するエネルギーとして使わせていただくことにします。

昨夜は恒例行事の除夜の鐘撞きでした。11時半ころから撞き始め、12時20分ごろには終わりました。

現在では、除夜の鐘を百八つ撞いて一年の煩悩を消すなどといういい伝えがどれほど熱心に語られているのでしょうか。

伝える人が本気で、伝えてもらう人が純心なら何かが少しは響くでしょうが、さてどんなものでしょう。

鐘を撞いていただく私としては、仏法は伝統行事の中に潜んでいるという思いで、伝統を守ろうと思っているのです。

消しても消しても湧き出てくる煩悩の存在に気づくことが仏法の原点なのですから。

煩悩に押しつぶされないように、煩悩を抱え込まないように、「やさしく つよく おもしろく」暮らします。

 

 

一年の締めくくり



一年の締めくくりとして今年やって来たことを整理して見ようと思いつきました。

このような整理をいままでやったことはないのですが、新しいことに挑戦を始めたこともあるので、足もとを確認するような感じで書いています。

まず第一に自分の目標をことばにすることが出来ました。目標は、ご縁がある人に「仏法を教わりました」と評価してもらうことです。

「やさしく つよく おもしろく」生きようと思ってくださる人が出てくださることを目標にしたのです。


次にホームページを新しくしたことです。私はネット寺院を造ろうというつもりはありません。いろいろな人との関わり方を探すのに、ホームページをつくるプロセスが役に立つと思っているわけです。

「お寺の便り」や「封筒」、「年賀状」などのイメージを変えました。お寺を「気づき研究所」にしようと思っているのです。

そして、この地で「おもしろく」生きておられるお方を探し始めました。いっしょに生活の中にある仏法を学ぼうと思っているのです。


たくさんご縁をいただきありがとうございました。
 

 

美味しさ



3歳過ぎた孫が、買ったばかりの土鍋で炊いたご飯をたくさん食べました。

もともとご飯が好きな子どもですが、あまりにも勢いよくたくさん食べるのできっと土鍋のご飯が美味しかったのだろうという話しになりました。

私たち大人は五感を使ってものを食べています。目で見て、匂いを嗅いで、あるいは食材の由来や調理中の音を聞いて味覚を刺激しています。

そのようにして美味しさを確かめているはずですが、土鍋で炊いたご飯を食べた子どもが五感を使っていたのかどうか疑問です。

土鍋を使って炊いたことも知らず、炊きあがったご飯の色が違っていたわけではないのです。子どもはただ舌の感覚だけで美味しさを感じていたと思うのです。

そんなことを考えると、美味しさは子どもに判定させるのが一番ではないかと思うのです。

「ミシュランの星は子どもにつけてもらう」、考えただけでも楽しくなります。

お皿や盛り付け方、食材の組み合わせなどの面倒なことは大人が考えることで、美味しさの極みは舌の感覚で判断するものだと思うのです。


 

 

あっという間に



私の周囲に、「あっという間に一年が過ぎました」とか「一年が過ぎるのが早く感じられます」という人が何人かおられます。

そしてそういわれる方は高齢者の方が多いようです。子どもや若い人からはあまり聞くことがないので、人生の残り時間が早く過ぎていくと感じておられる高齢者に多いのかなと思います。

「人生の残り時間」を意識しておられるからですが、残り時間の使い方は意識しておられないからだと思います。

その時間を何かおもしろいことに熱中して過ごしたら、「早く明日になればいい」と思ったり「この続きはまた明日」と、明日が待ち遠しく時間が遅く感じられるのではないでしょうか。

私はどうかといえば、「今日はここまで。身体を休めてこの楽しみの続きはまた明日」と明日のことを考えるのです。

そのように暮らし始めてからは、一年の終わりになって、「あっという間に一年がたった」という思いはあまりありません。

「一年が早く過ぎる」と感じておられる方とどこが違うのだろうと考えるのですがよくわかりません。

しいていえば、私の人生は必ず終わるのだという自覚が日常生活にしみ込んでいて、限りある大切な時間だから自分も楽しく周囲も楽しんでもらえることに使かおうと思っているからです。

 

 

突然ですが

昨日の午後、飛行機から降りて携帯のメールを開いたら、「案内専用」というメールが数本きていました。

さっそく開いてみると、ドコモからという書き出しで、「あなたのメールが一等になり9700万円当選しました」というご案内でした。

一目見たとき、9700円当たったのだと読んで少しうれしく思ったのですが、よく見ると万円という文字が見えてこんどは大変驚きました。

その後、メールの発信者のドコモさんが、私がメールを読んだことを確認したらしく次々と新しいお知らせメールを送ってくるようになりました。

3回目か4回目のメールを開いたとき、受け取り手続きのために必要な条件が送られてきました。さらに受け取りの締め切りは28日で、その日を過ぎたら一切が無効だというお知らせも来ました。

その後を追っかけるように、人生の幸運を掴み損なって、いままでの人生で満足するのかという問いかけまでくるようになったのです。

その段階から、「オレオレ詐欺に引っ掛かる人の心理状態の学習」という気分になって、もう少し奥まで探求してみようかとも思い始めたのです。

しかし結局は、「お金は汗水垂らしていただくものだからね」という家内のひとことで、探求を中止しました。

少しばかり緊張感を感じた数時間でした。


 

 

なぜ?



ロクシタンのお店から「ピローミスト」という商品が消えていました。就寝時に2、3度枕元にスプレーして、やさしい香りの中で眠りにつく香水でした。

店員さんの説明では、生産中止になったらしいのです。愛用者はあったと思うのですがなぜでしょうか。

化粧品のような高額品ではなく、手頃な値段でオシャレな商品だと感じていたのに残念です。

よく売れるもの、収益が出るものばかりを揃えたお店を目指しておられるのかどうかわかりませんが、お客さま志向を忘れた結果ではないかと心配です。

同じころ、女性のおしゃれな下着メーカーのトリンプが苦戦しているというニュースを読みました。ユニクロなどにおされ、売り上げが落ち込んでいるようなのです。

この事実もお客さま志向を見失った現象に思えます。オシャレと満足感のためには少し高額でもいいと思っていたお客さまが、それがお手頃な価格で手に入ることに気づかれたのです。

ロクシタンには、香りで暮らしを豊にするというコンセプトを再点検して欲しいと思っているのです。