HOME
»
過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

小春日


明日は小春日和という予報を聞いて、柚子を採ることにしました。「小春日」ということばに後押しをしてもらいました。

我が家にある柚子の樹は、昔からある古くて大きなもので急傾斜面にあります。

足場が悪く、高剪りバサミを最長に延ばしても最上部には届きません。

採りやすいところから採ってゆくのですが、枝の隙間から実がついた枝にハサミを当てるのは時間がかかるものです。

家内はこの柚子でさっそくジャムを煮るといっています。毎朝いただくヨーグルトのトッピングにするわけです。

自家製のジャムは、糖分を控えた香りのいいものが出来るので楽しみです。


 

 

殺生

今年はくさい匂いを出す虫が異常発生しています。我が家にも沢山いますが、お参りに行く家でもほぼからず見かけます。

お参りのあとの片付けの途中で、その虫を見つけた家の人が、「虫を捕ってもいいですかね」といったり、私に見せないように虫を捕らえられる様子も見かけます。

仏事のときに殺生をしようとしていることへの後ろめたさがそうさせるのだと感じるのです。仏事という行事には、殺生を戒める力があるのでしょうか。

仏の教には、不殺生戒という教えがあります。そのような教えを、いつどこで誰から学ばれたのかわかりませんが、かって聞かされていたことを、仏事をきっかけに思い出されたのだろうと思いました。

そのときタイミングよく、不殺生戒(無益な殺生は止めよう)、不偸盗戒(盗みをしてはいけない)、不妄語戒(嘘や悪口は慎もう)といったお話しをしたらよかったと、帰ってから気づきました。


 

 

その後の心境

2週間前にご主人を見送られたご婦人に、その後の心境をお尋ねしてみました。その場にはもう一人ご主人を亡くされたご婦人もいらっしゃいました。

「ご主人の夢を見られましたか」という問には、「いいえ、一度も見ません。まだ隣の部屋に行けばそこに寝ているようで」といわれました。

隣の部屋で養生しておられたのですが、急に容態が変わってのお別れだったのです。

私は、「どこに行ってしまったのだろう」とか、「今ごろはどうしているのだろうか」というお話しを期待していたのですが、それはありませんでした。

お二人ともまったくそのようなことばを口にされませんでした。

「なぜだろう」と考えながら、ふとある思いが湧いてきました。

お亡くなりになったその人のことは、考えても仕方がないと思われているか、あるいは考える必要がないとお考えなのかのどちらかということです。

さてどちらなのだろうか、次の機会にお尋ねしようと思っています。

 

 

甘いのだろうか

昨晩お酒の席で日馬富士関引退の話題がありました。

暴力事件で大相撲界の名誉を傷つけたかと、世間を騒がせたことの責任を取って引退するという出来事が話になりました。

暴力事件の原因は、被害者の態度が悪いという注意から生じたものという理解をしていました。マスコミで伝わっている理由以外には想像できませんでした。

ところが原因について全く違う話がネット上に流れていることを聞いたのです。

それは、「モンゴル会」というモンゴル出身の力士さんたちの会にまつわる話でした。その話に加えて、かって相撲界で事件になった八百長問題の話が出たのです。

私たちが知らないモンゴルという異国の文化のこと、そして大相撲界の文化のことを重ねて考えてみると、まったく違う問題として疑うこともできるのです。

もしそれが事実なら、私のようにマスコミで伝えられる話を信じて暮らす人々はお人好しの集団です。何を信じていいか、怖くなってしまいます。

私はマスコミの裏を想像することはめったにしませんが、それを「甘い」といわれても仕方がないかと思っています。


 

 

マンガのおもしろさ



急にマンガとか絵本のおもしろさを感じるようになりました。

本堂内に地獄の絵を展示しているのですが、ひそかに関心が向けられている気配なのです。

先日、『君たちは、どう生きるのか』というマンガ本を購入しました。私が生まれる前に出版されていた本が漫画化されたのです。

さっそく目を通していると、「オッ、これは仏教に通じる本だ!』と思ったのです。

お釈迦さまの教えが、現代化されてマンガになっているように思えたのです。

大急ぎで読み終え、もしそうであれば、みなさんにお勧めしたいと思うのです。

どのような媒体からにしても、真実に気づくことが出来たらうれしいのです。


 

 

時間という贈りもの

「年に一度であっても、こうして我が家に来てくださることがうれしい」というお方のことばを聞きいてハッと気づきました。

過疎、高齢化の地域では、他人と話す機会がめっきり減るのです。

話さなくても、「ひと中」に群れるとか交わるという状態が減るのです。

過疎でお隣が遠くなります。高齢化で足腰が衰え、移動がおっくうにあるいは不自由になります。

そのような状況で、自分のところに来てくださる方があることがうれしいといわれたのです。

今までと変わらない訪問であっても、周囲の状況が変わったことでうれしさが変わったのです。

訪問する側からいえばそのお方に「時間を贈る」ことでもありますが、受け取る側で感じることは「一人ではない」という大切なものだったのです。


 

 

禁煙の表示

「店内禁煙」、「おタバコはご遠慮ください」と張り紙をしている場所が増えてきました。

愛煙者にとってはつらいサインですが、タバコを吸わない人にとってはうれしい張り紙でしょう。

ところがこのサインは寺院や教会のような礼拝施設で見かけることは少ないように思います。「なぜだろう」と気づき推測していることは、その施設を利用される方々のマナーを信頼されているのです。

また礼拝施設全体へうやまう心があるからではないかと気づいたのです。

高級ホテルのロビーとか高級といわれるレストラン、あるいは美術館とか劇場でも見かけることが少ないのは、同じようにわきまえられていると見えます。

あらためてサインを出すか、それとも出さないか。その施設を利用されている人々の雰囲気がサインになるといいと思うのです。

そしてその雰囲気の理解に異なる方がおられたら、教えてあげたらいいと思うのです。


 

 

失敗を無駄にする人、しない人

「失敗は宝、失敗は財産」という話を聞くことはたくさんありました。私自身もたびたびそう話してきました。

ふと振り返ってみたら、自分がしでかした失敗の体験を積極的に記憶にとどめようと思ったことはありませんでした。

大きな失敗がなかったわけではありません。数え切れないほどの失敗をしてきているのですが、財産になっているとはいい切れないと思ったのです。

あらためてそのことを考えて気づいたことは、自分がしでかした失敗の原因究明をおろそかにしていたのです。

自分で自分の失敗の原因を究明することは、自分を裁くことです。甘さいっぱいの原因究明は、財産にならないということでした。

他人にかけた迷惑の重さを知らされるとか、金銭的に大きな痛手を受けるというショックがなければ、失敗を教訓にすることが出来ないということでした。

世の中には、失敗を無駄にしないで自分の夢を実現された方がたくさんいらっしゃいます。

あらためてその人たちの姿勢を考えると、自分に対して厳しい姿勢を貫かれた人であったと思います。


 

 

終わったときが始まるとき



主立った片付けを一通り終え、2日間の行事が終わりました。

スタッフのみなさんには大変多くのお手伝いをいただきました。

過疎高齢化そして宗教離れ流れの中で、仏法と出会う場をどのように支え、あるいはどのように整理したらいいか。

空き時間を見てはお手伝いの人たちに話題を投げかけました。

出会いの場を自分たちで創造するのだという意識になっていただくことから始まると考えていますので、まずはその意識になっていただかなければなりません。

そのことは江戸時代から定着している檀家制度などの見直しをはじめとする、住職と門信徒さんの意識改革なのです。

その覚悟が問われているのです。

 

 

先生選び



「先生を選ぶ」なんて、とんでもない思い上がりと失礼な行為です。

とはいっても、お寺においでいただいてお説教をしてくださるご導師さんは一人選ぶことになります。

そのときどのようなお方にお願いをするかというと、自分自身がお聞かせいただきたいお話しが聞けそうなお方に声をかけています。

そしてお参りされるお方に聞いていただきたいお話をしてくださるお方をお招きします。

そう考えると、そのお寺の住職が共感するご導師さんがお見えになっているわけです。それでいいのですが、いろいろなお寺にお参りして、そのお寺のご住職さんが共感されるお話しを聞くことも大切なことなのでしょう。

今日は報恩講の二日目です。しずかにお話しをお聞かせいただく予定です。

気温は低めですが好天の予報が出ています。うれしいことです。