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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

玄米食


毎日玄米のご飯をいただいています。ずいぶん前から玄米を基本にしていましたが、何年になるか思い出しません。

始めたころは、圧力釜でないと玄米ごはんが炊けませんでした。また玄米ごはんそのものもしっかり噛んで食べないと胃を壊といわれていました。

ところが現在いただいている玄米は、玄米の成分を残しながら精米されたもので、実に食べやすくなったものです。もちろん炊き方も、水加減を玄米に会わせるだけで普通の炊飯器で美味しく炊けるのです。

名前はロウカット玄米というのですが、見た目は玄米であっても白米と同じ感覚で食べられます。

白米のツヤや炊きたての匂いはあきらめても、健康のためにこれほどすばらしいお米はないと思っていただいています。


 

 

尋ね人


「お浄土でまた会えるといわれましたが、どうやって探せばいいのでしょうか」という質問をいただきました。

「また会える」というお話しを聞いたときから長い間疑問だったといわれたのです。

そしてあらためてこんな質問が出ることをうれしく思いました。真面目にというか素直に聞いてくださったからの質問です。

周囲に人がおられる場でたずねられた疑問です。その質問を耳にする人の中には、「ほんとうにそんなことがあると思っているの?」と不思議に思う人もあろうかと思います。変人ではないかと考える人もおられるかもわからない質問内容に聞こえます。

質問をいただいたとき、うれしくなって「あぁ、それは向こうから会いに来てくださるから必ず会うことが出来るのですよ」とお答えしました。

出会ったとき仏さまの口から出るおことばは、「よく来たなあ、うれしい」ということばです、ともお話ししました。

お尋ねになったお方は、「ああそれなら安心しました」と喜んでくださいました。

法事の席は、いつだっておもしろい会話の場です。


 

 

人生泣き笑い


福祉施設「花の村」の職員さんが書いた記事を目にする機会がありました。

その中に、「人は生まれてくるときには周囲が笑い、生まれてきた本人は泣いている。最期を迎えるときには周りが泣いて本人は笑う」ということばがありました。

「日夜高齢者の介護に当たる自分は、その人の最期を笑顔で迎えさせてあげたい」と書いてありました。それが「終活のお手伝いの目標」ですというお考えなのです。

人生の最期を笑顔で迎えるお手伝い。
簡単なことではありません。
一人の力で出来ることでもありません。

まず何より、つねに寄り添ってもらっているという安心感が必要でしょう。また、毎日が感謝に満たされた心であることも大切です。

そんな人生を実現していただこうと、仕事に取り組んで下さっている職員さんがおられることをうれしくありがたく思うのです。

 

 

贈りもの



家内の誕生日プレゼントは異色なものになりました。

例年は年齢の数のバラを贈っていたのですが、今年はフラワーアレンジメントにしたのです。

今年は結婚して50年目の誕生日になります。まあ、50年間もよくぞつきあってくれたという感謝の気持ちも込めて、今までのプレゼントとは趣向を変えました。

このフラワーアレンジは、東京のジャルダン デ フルールという花屋さんにお願いしました。この経営者東信さんの考え方に衝撃を受け、いつかお話しを聞きたいものだと思っていました。

「人間のために剪られて死ぬお花」に寄せる思いの深さを放送で聞いたとき、人間の歓びのために、お花のいのちをどのように生かしきられようとされるのか知りたかったのです。

といっても簡単にお目にかかれるお方でもありませんので、何かの機会にこのお方のお人柄に出会いたいと思い、考えた末作品をお願いしたわけです。家内の誕生祝いであることや、結婚50年の思いなどをしっかりと伝えて作品を待っていました。

受け取った家内の歓びは、お花の一生をいただいた感動であったろうと思います。

 

 

炬燵


年末から我が家には炬燵が出ています。家で炬燵を利用する習慣がない4歳になる孫がやって来て、炬燵に足をいれて「やわらかい!」といいました。

それは「あたたかいというのだよ」と教えたのですが、初めて体感したことに対する表現がわからなかったのだろうかと不思議に思いました。

孫はあたたかいも寒いということも知っているはずです。それなのになぜ、と思ったのでちょっと考えたことです。

「仏さまのお慈悲の力はぬくい」といわれた大人のことばがあったことを思い出して、最初に出会った感覚は、普段使用していることばでは表現出来ない感じがあるのだろうかと思ったのです。

いくつかある表現のうち一番しっくりすることばが口に出たのではなく、直感的に出たことばなのでしょう。


 

 

「ごしんさん」

お亡くなりになった人を追憶する機会はしばしばあります。通夜とかお葬式、その後に営む法事の場などでは、ご家族のみなさんや地域の人々が一緒になって思い出を話します。

一緒に暮らした人や一緒に働いた人々には、ひとつの目的が共有されていて思い出話はたくさんあるわけですが、地域の住民という関係であれば共通した思い出が沢山あるとはいえません。

しかし故人を親兄弟として見ていた人々や上司とか同僚として見ていた人たちの場合と違って、一人の人間として見る見方、しかも一生という時間と環境とあわせながら追憶するこは出来ます。

昨日通夜を営んだ故人は、93歳のご婦人でした。そのお方は、通りがかりの立ち話の後の別れ際でも、「ごしんさんによろしくおっしゃって下さい」と必ずいわれていました。

「ごしんさん」とは私の家内のことです。奥さんとか坊守さんとかいわずそういわれていたのです。

「ごしんさん」という敬称を話される人を私は二人知っていました。その最後のお方がお亡くなりになられ、たぶん私の周囲から「ごしんさん」が消えると想像しています。

幼いころの躾として身につけられた方言など生活のことばが周囲から次々と消えていく中にあって、大事に使い続けて下さったお方でありました。

古くなった道具と同じように、古くなったことばも捨てられます。映像や記録としては伝わりますが、生活のお現場で伝わるぬくみや、そのことばをさりげなく使っていたやさしさは霧散します。

そういう生き方の事実を追憶して、故人のお人柄の断面を追憶してお話ししました。




 

 

変な性格


人間という生きものはずいぶん身勝手な生きものだと思います。自分のことです。

とっくにわかっていることなのですが、感じる機会があるときには何度思ってもいいのです。その真実を確認する作業ですから。

先日、上手にほめられました。

これからの地域や伝道の進め方について、いままで考えていたことを法座の場でプリントを作成してお話ししたときのことです。

およそ30分、そのときの口調に「情熱がこもっていて、凄いと思いました」という賛辞をいただいたのです。「いやいや、これからのことを考えているとつい」とかなんとかいいいながら、悪い気はしませんでした。

自分の行動が評価されたものとしてうれしくなったのですが、と同時にまだ何一つ成果が出ていないことなので、考えだけをほめてもらうことに恥ずかしさも感じてはいたのです。

成果が出るとか失敗するとか、その過程にどのような対処をしようとしているか、そのことを評価してもらえばうれしいと思っているのです。

ほめられてうれしいのにうれしがるそぶりをせず、それとは違うことに評価を期待して口にする我が身を、つくずく変な性格の人間だと再確認したのです。

 

 

死亡通知


数年前から、新聞に掲載される死亡通知を見るクセがつきました。周囲の人がお亡くなりになったことを見逃さないようにということが第一の目的で、次にお亡くなりになっている人の年齢が気になるのです。

もっとも最近の傾向として、死亡通知を出されないお方が増えているようで、通知される割合は半分くらいではないかと推測しています。

日本全国の著名人がお亡くなりになったときの掲載については、どのような基準で決められるのかわかりません。元タカラジェンヌのお方とかヒマラヤ登山のシェルパさんとかのお名前が出ると、一時代を風靡したお方は必ず掲載されるのかなあと思っています。

2月1日付の某全国紙に、お世話になった先生がお亡くなりになったというお知らせが出ていたようです。ところが私が読んでいる新聞には掲載がありませんでした。

故人は宗教哲学の先生であり俳人でもあったのですが、某全国紙の俳句の選者としてご活躍であったから、その新聞のみに掲載されたものと推察しました。

先生には、同人誌創刊のときから仲間にも誘っていただき俳句のご指導をいただきました。また大阪で朝日カルチャーセンターの講義をたびたび受講するなどして、親しくしていただいた先生でした。


これで師と慕っていた数人のすべてのお方がお亡くなりになってしまいました。

これからの人生は、教わったことを思い出しながら自分の道を歩きます。
 

 

家族になったルンバ


我が家に自動掃除機の「ルンバ」がやって来て約2週間くらいになりました。

毎日使うわけでもありませんが、あちこちの部屋へ移動させては掃除をしてもらっています。

ルンバを使うようになって、我が家に小さな楽しみがひとつ増えたような気がしています。

そこまでルンバ君に近親感を感じたひとつの出来事がありました。それは仕事を終えた彼がちゃんと自分の居場所を探し当てて鎮座していたことです。

「仕事が済んだからちょっと休むよ」とでもいっているような、思いがけない行動をしていたので、家内と二人で「えらい!」といいました。

部屋中をもれなく掃除しているかどうか、付き添いながら見ていませんからわかりません。でも、机の下に置いているゴキブリ団子の容器などをはね飛ばしているのを見ると、隅々までていねいに掃除をしているように感じます。

最近では、彼が動きやすいように、主人である私たちがイスを移動したりコードを片付けるなどの気配りをします。ルンバ君のために、人間が協力するという妙な関係が生じて笑い合っています。

ルンバは一台の機械です。しかし人間の協力を引き出すところは機械とはいえないモノがあり、家族のような関係になりつつあるのです。

 

 

殺し文句


7、8年前から電気自動車に乗っている男性がおられます。電気自動車をもっている人はこのお方以外には知りません。

その方が新車の乗り替えるといわれ、今月中には納車になる予定だといわれました。

話では、バッテリーが劣化して充電時間が長くなり走行距離も少し短くなったそうです。見た目にはそんなに悪くなっているとは見えなかったのですが、ご本人は新型車が欲しくなったようです。

奥さんが笑いながら隣に座っていられたので「車が好きなんですねえ」と話しかけたら、「あと何年も生きられるわけではないのだから、元気なときに乗りたいといわれたら仕方がないです」と話して下さった。

ご主人は70歳前半の年齢なのですが、そのような人生設計が出来ているようでした。

「なかなかいい殺し文句ですねえ」といったら二人が笑われた。

ものごとには、決断に必要なことばがあります。とくに「これが最後のお願いだ」という申し出は、かなえてあげなかったときの後悔のことを思わせて響くのでしょう。