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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

終わったときが始まるとき



主立った片付けを一通り終え、2日間の行事が終わりました。

スタッフのみなさんには大変多くのお手伝いをいただきました。

過疎高齢化そして宗教離れ流れの中で、仏法と出会う場をどのように支え、あるいはどのように整理したらいいか。

空き時間を見てはお手伝いの人たちに話題を投げかけました。

出会いの場を自分たちで創造するのだという意識になっていただくことから始まると考えていますので、まずはその意識になっていただかなければなりません。

そのことは江戸時代から定着している檀家制度などの見直しをはじめとする、住職と門信徒さんの意識改革なのです。

その覚悟が問われているのです。

 

 

先生選び



「先生を選ぶ」なんて、とんでもない思い上がりと失礼な行為です。

とはいっても、お寺においでいただいてお説教をしてくださるご導師さんは一人選ぶことになります。

そのときどのようなお方にお願いをするかというと、自分自身がお聞かせいただきたいお話しが聞けそうなお方に声をかけています。

そしてお参りされるお方に聞いていただきたいお話をしてくださるお方をお招きします。

そう考えると、そのお寺の住職が共感するご導師さんがお見えになっているわけです。それでいいのですが、いろいろなお寺にお参りして、そのお寺のご住職さんが共感されるお話しを聞くことも大切なことなのでしょう。

今日は報恩講の二日目です。しずかにお話しをお聞かせいただく予定です。

気温は低めですが好天の予報が出ています。うれしいことです。


 

 

報恩講です



今日と明日、報恩講をお勤めします。

報恩講というのは、いのちを輝かす道をつけてくださった親鸞聖人とお出会いする日です。

浄土真宗の近くのお寺で、一年に一回だけ準備していただく特別な日です。

自分のいのちが輝いているかどうか振り返ってみてください。

「人生はおもしろいよ」「生きるということはうれしいことだ」と思う人生を生きて欲しいと願いながら開催します。


 

 

奉仕をしていただきました



今日一日、延べ26人のお方に明日の報恩講の準備をしていただきました。

寒い日でした。
ほんとうにありがとうございました。

朝8時から11時前まで、午後1時から5時まで隅々まできれいにしていただきました。また荘厳やおときの準備も終わり、明日のスタートを待つばかりになりました。

このようなお手伝いは、すべて奉仕でお願いをしていますがいつまで続くか心配です。

たとえ休日であっても、仕事や家庭、あるいは地域の行事を優先して、お寺のお手伝いが後回しになる傾向があります。まして平日なら、仕事を休んで奉仕してくださることは無理かもわかりません。

現代社会では、宗教への関わり順がずいぶん低下してきたように感じているのです。

そのような環境の中で、現代の人々に宗教への関わりの大切さに気づいていただく困難さと責任の重さを感じます。

お寺をお預かりするも私がどのように行動するか、その評価が奉仕に参加してくださる人の増減のように思えてきました。


 

 

準備に万全はあるのかな

24日、25日の二日間、お寺にとっての年間最大行事「報恩講」がつとまります。

その準備の追い上げに入っています。

2ヶ月も前からボチボチと準備を始め、その都度気づいたことを準備してきました。

一月前には、お手伝いのお願いも終えました。外注していたものも届き、お配りする印刷物も終わりました。

境内の樹木の刈り込みや草取りも、数日間かかって終わりました。接待の料理に使う野菜や調味料、お茶やお菓子も揃いました。

あとは明日の大掃除と、ご仏前の荘厳だけになったと思うのですが、はたして漏れはないか心配です。

準備はどれほど周到に行ったつもりでも何か手落ちがあるようです。突然の出来事もあります。

そんな心配を抱えながら毎年の行事が始まるときを迎えます。


 

 

育ち

その人が幼いときどのような境遇であったのか、一生を終えられてから気づくことがたくさんあります。

戦中戦後の厳しい生活を体験された人は、人の情けがわかる人が多いように思います。そして他人様への思いに深いものがあるように見えます。

助け合って生きた時代がそうさせたのではないかと思うのです。あるいは家族や周囲の環境も無縁ではなかったと思います。

宗教に対する敬虔な姿勢や、他人の悪口をまったく口にされない様子などを見ていると、特にそんな思いが浮かびます。

宗教や道徳心ということばでは伝えにくい躾は、毛穴から入ってくるものでしょう。

少子化、核家族化という社会になっていますので、目の前で直接子供たちに伝える機会は減りました。

それでも大人同士が助け合いの活動を不断に実践することは心がけなければならないと思います。


 

 

仮通夜

今夜「仮通夜」をお勤めします。

仮通夜ということが始まったのはいつごろからでしょうか。若いころ聞いたことばに、「身内の通夜」ということばがありましたが、それが仮通夜に代わったものと思います。

葬儀会館や火葬場の都合でお葬式の予定を先延ばしにしなければならないことがあります。そのときにお勤めしていたのが「身内の通夜」でした。

それが「仮通夜」という呼び名に変わったのです。「仮」は「本通夜」に対してのことばで、身内の通夜という意味とは少し違うと思っています。

家族や身近な人を亡くされた場では、故人の一生を私生活までも語りながらしのぶことが出来ます。そして参加者それぞれが、気づかなかった自分の人生との関わりまでも知ることが出来ます。

必ず死ぬ人生をどう生きたらいいか、気づかせていただくことが出来ます。通夜はそのような集まりだと思っているのです。


 

 

献杯

法事の席で、献杯の音頭をとって欲しいと頼まれました。

今までそのようなことを頼まれたことがなかったので、ちょっと面食らってしまいましたが、「『食前のことば』をいいましょう」といって引き受けました。

ご主人があいさつされた後、「ご院家さん、ひとこと」といわれ、配ってもらっていた食前のことばをみなさんと一緒に唱和しました。

「乾杯」は、仲良くやろうという人間同士の合図。「献杯」は、神前にお酒をお供えする意味のことばで、神や祖先に感謝してお供えする合図と理解しています。

だから「乾杯!」と叫ぶように杯を掲げることは、場にそぐわないとお話ししました。

「これからいただくいのちと、今まで支えてくださった人々を思い、ご馳走をいただくことに感謝すしていただきましょう」とお話しして役を終えました。

 

加齢現象

加齢によって確実に変わっているものをいくつか点検しています。

経験を身につけて知恵が深くなることや、技術が向上したり知識が増えるというプラス面はもちろんあります。

しかし一方で残念なことに、新しいことに挑戦する意欲と勇気が薄らぐというマイナス面があるのです。

高齢化地域は、このマイナス面が充満して地域全体が活力を失っていくという見方をすることが出来ます。

私は若いころに、「若いときの失敗は取り戻せるが、高齢になってからの失敗は取り返しがつかない」という話を何度も聞きました。そういって挑戦や変化することをすすめられていたのです。

その逆は、高齢になってからの挑戦は危険だという「すりこみ話」にも聞こえるのです。

大切なことは、挑戦する「新しいこと」が何かということです。

挑戦する目的が財産を増やすこと、それとも名誉取得といった私利私欲なのか。

それとも他者と自分の歓びのための挑戦なのか、それが大切なことなのです。たとえば他人に何かをプレゼントすることに挑戦する、暮らしをシンプルにすることに挑戦するといったことです。

もしそれが失敗して思い通りに実現出来なくても、その過程は楽しい時間であり、その過程の出会いはお互いの歓びになるはずです。

加齢によって挑戦をあきらめないで、加齢を楽しみながら、他者の歓びを実現する挑戦意欲と勇気をもとうと思っています。

 

 

豚肉と白菜の料理



昨日新しい鍋が届きました。暮らしをスモールサイジングするツールの一つです。

届いたときに家内がいいました。

「このお鍋を宣伝するパンフレットに、まな板の上に白菜を一枚敷き、その上に豚肉を敷いて。

その上に白菜、そして豚肉と重ねて。終わったらそれを適当な大きさに切ってお鍋に入れて蒸す。

蒸し終わったあつあつをポン酢で食べる。」

それを読んで、その料理がしたくなってこの鍋を注文した、といいました。

その決断と行動の速さをどう評価したらいいのか、出来上がった料理をいただいてからのことに致します。